波乱に満ちた朝鮮物語

Japanese | Korean

第7部 あれからの偽らざる木浦市の現状

木浦は始まり地である。列車に身を任せ長い時間休みなく走ってきた旅人は、港、木浦の地を踏む。やがて旅人は自然と微かな哀愁にふける。自分も知らず知らず歌ってしまう木浦の涙。ここは湖南線の終着駅、木浦。

湖南太平洋後ろに ユタルの山が聳え立つ 見よや立つや朝ぼやけ・・・

・・・云々との木浦市民歌もあったがそれは過去の話だ。しかし風景は今も昔も同一だ。当時は人口10万の港町で、日本本土との中継基地と中国本土との交易で多忙を極めた時代があった。(現在は衰退しているが、人口だけは増加し26万、広範囲としては220万)周囲は多島海で干満の差8~9メートル、黄海に面しているので海水が、呼んで字のごとく、黄色で濁っている。そうして干満の折り、鳴門の渦巻き以上の渦が各所に出現する。今の日本ではこれまた見られないのが特徴で、ある歌で有名な珍島もその区域になっている。引き潮の時は陸続きになるのもあながち不思議はない現象である。それにつれ干潮の折りには付近の島々が泥の上にでんと鎮座している。その鎮座した、見渡す限りの泥平原に無数のムツゴロウがペタペタと跳びはねる。人の気配を察するとザーっと一面に音を出し、泥穴に退避する。海産物の宝庫になっている。

あれから木浦を去って約50年。半世紀も経過しているのだ。悲惨な朝鮮戦争、そうして南北分断、凄まじい限りの政変。あの地の本当の中身はどうなっているのか。例えばあの朴大統領を取って見ても想像がつく。日本時代には軍人として満州国軍のエリートになり、次には日本陸軍の士官学校入学、日本敗戦となり米国流の訓練を受け、そうして最後には韓国陸軍創始者になり、遂には大統領にまで登りつめた。これは最上部の例だが、一般民衆も大なり小なりの知らない激変があったはずだ。そうして、かつての支配者、日本人をどう思っているのだろうか?せっかく行っても一瞥もなく手を振られるのではないか。一抹の不安が残る。文通で知り合った沈氏を頼りに、先ず釜山飛行場に到着。市街、そして港は一変していたが、目を凝らせば昔の原形が微かに残留している。あの大陸独特の匂いは昔のままだ。それよりも半世紀ぶりに再来したと言うことは、普通の観光客とは全然感情が相違しているはずだ。ホテルに宿泊して、その感情の一端として自己流に一片の詩を作成した。

”生受けはぐくんだこの大地 再びまみえた 愛しさに 胸の高まり いかんせん もくげの匂いも懐かしさ 君と行こうか 絆を組んで 永久に解くな 日韓の道” (もくげとは韓国国花の一種)

翌朝、通訳の沈氏(彼は敗戦まで長崎で生活しておったので日本語は充分)と高速バスで目的地である木浦に出発した。当時は航空路未完成だったので仕方がなかった。約400キロメートル以上ある。朝鮮は横幅の距離が大である。しばらくして沈氏、開口一番に、「日本には敵わない。そうして、ずるい!」、はて、何のことですか?「考えても見なさい。我々が生死を分けた朝鮮戦争の時、日本ばかり金儲けばかりして、全く全く」。あれは日本が仕掛けたのではない。日本は全然関係なかった戦争ですよ、と言っても納得しないようだ。私たちは新聞紙上でしかあの戦争を知らない、実際はどうでした?そしてあなたはその時どうしたの?沈氏、「あのとき私は米軍防衛の最前線付近にいたが、米B29爆撃機が無数の爆弾を投下したので、我々一般民衆も甚大な被害を受けた。あっちに首だけが吹っ飛んでいる、腕だけ木にぶら下がっている。絨毯爆撃を食らったのだ。私は山中に避難して無事だったが、親戚、そうして知人が無数、その犠牲になった」。これは丁度、第二次大戦の時、大空襲されたのと同一だったのだ。戦争は偽政者の行為一つで、大衆が無残な目にあうのだ。日本は今は平和だよ。もう沢山だ、戦争は。しかし良く考えてみると、貴方たち朝鮮は大変な苦難の道を歩いてきたよね。日本時代には、あの第二次大戦の巻き添えを食らい、日本敗戦後は独立したまではよかったが、親日派の一掃、いままで国のためと思ったことが引いては日本のためだったので大変だったでしょう。ことに日本時代に警察官だった人々はどうなっているのだろう。お気の毒だ。そうして舌の根も乾かないうちにあの朝鮮戦争、南北分断。沈氏「日本ではこんな歌知ってますか?”アメリカを信ずるな、ソ連に騙されるな、日本はまたやって来る、朝鮮人は用心しろ”」。彼はもう一つ「分断の哀歌です。”ああ、山が寒いので来られないか?ああ、流れがせき止められて来られないか?同じ故郷の土地なのに、南と北は隔たれ恨みの道千里、夜ごとお前の面影をもとめ、夜ごとお前の面影をもとめ38度線をさ迷う” どうです、我々朝鮮民族の心の一端です!」

高速バスは相当の距離を走行している。窓外を見れば、かつて見忘れた風景が脈々と蘇る。ポプラ並木に巣をくっている、かささぎの巣。時折り見かける朝鮮独特の哀号(アイゴ)に満ちた葬儀の列。しかし一番変化してしまって、見ることができないのは独特の藁屋根。見当たらない。聞くと、韓国政府の重要項目の一つに民家の改善があり、補助も出たので、昔の藁屋根が見当たらない。「もし見たければ、博物館ならば見ることができるでしょう」。やはり50年の歳月、日本も変化したが、韓国も大変化していたのだ。百聞は一見にしかずとか。

昼飯のため、途中普州に下車。初めての大きな町だったはずだ。「いや、これは戦争のため北から無数の人々が避難してきたので、昔とは全然違います」。昼飯の朝鮮そば(冷麺)を楽しみにしていたのだが、全然口に合わない。そうしてあの平壌で食した朝鮮そば(冷麺)とは相違があるようだ。これは、昔在鮮当時とは大相違して、舌が日本食に慣れきっているのと、同じ朝鮮といっても北と南では食文化が相違するのだ。冷麺は何といっても平壌冷麺が一番だ。探せば今でも存在するだろうか。幻の冷麺になっているような気がする。どうしても口に合わない。仕方がない、街角で見つけたパンを無理して食べる。からい食品は問題ではないのだが、他がどうも。食堂に入る。普通ならば好ましい匂いのはずだが、それが全く逆、吐き気をもよおすのだ。私は大抵の食品は美味しく食べるのだが、韓国食品だけは重大な抵抗がある。昔の汚い臭いの思い出が残置しているのかもしれない。中国料理は全品、日本食以上に美味しい。たとえ話で、日本男子の希望では、家屋は洋館、妻を娶るなら日本女性、食は中国料理、との話があった。テレビで見る世界各地に派遣された報道人たちは、表面には出さないが食の苦労が無数にあると思う。ただし、韓国食品のなかで全然抵抗なしに食するのは、例の朝鮮漬け(キムチ)、それと沖網(日本では釣りに利用している小蛯)。朝鮮産のは白色で、それが大好物なのだ。

食事も終わり約1時間後、再び車上の人となる。車内には多数の乗客がいるのだが、皆押し黙っている。日本ならば会話に花を咲かせる場面もあるのだが、相手は全員韓国人。そうして会話といっても日本語は忘却の彼方に行っている人々。反日的な思想の持ち主もいるかもしれないので、会話は当然沈氏とのみになる。彼、突然思い出したように「あれ昔戦艦ヤマトがあったでしょう。今の日本は工業力が凄いので、あれの数倍の戦艦を建造しているはずだ」。何!そんな話は全然ないよ。第一、もしそんな工業力があったとしても国会の議案通過なくてはできない。昔の日本でもあったが今ではことに日本は民主国家になっているので、そんなことあり得ないし、噂に聞いたこともない!それでも沈氏「いや、これは間違いない話だ」とカブリを振る!未だに軍国日本の呪縛から抜けられないのだ。こういう思い違いは韓国ばかりではなく、各国にあるのだ。ちなみに、中国に行ったとき、「日本男性と結婚したい」と、どこで知ったのか、中国女性が往々にして訪問する。全員学歴もある立派な人たちである。通訳氏に、日本は経済力があるので、それですか?と尋ねると「それもあるが、あれあったでしょう、リホン(日本)敗戦になったとき、日本の女性はアメリカ人と結婚したくて」。それは違うといってみたものの、「いや、確かにそうだった」。何回言ってもそれしか回答がない。ロシア人「日本人は英語もロシア語も出来るのに、皆全然話をしない」、違う、出来ないんだよ、と言っても「そんな事ない、出来るのに!」

かつての李承晩政権は、国会で反民族行為者処罰特別法を制定し、日本時代の親日派を続々逮捕した。李政権の延べ閣僚の96人のうち、34パーセントが親日経験者、警察上級幹部の70パーセントが日本時代に警察の前歴があった。それらの人々が、主とした該当者になっていたので国会で大騒ぎになり、その時効は1年に短縮され、結局350人を逮捕、221人を起訴、12人に有罪判決があった。親日派粛清は竜頭蛇尾に終わった。時を同じくして、日本にもその矛先を向け、日本漁民締め出しのため李承晩ラインなるものを設定して、日本漁民に対して多大の苦痛を味合わせた経緯があった。当時は日、韓、共に激動、そして苦難の時代だったのだ。そうして、このように簡単に韓国訪問が出来るということは夢想も出来なかったのだ。

反日感情が渦巻いていたら、との思い込みも霧散したような気持ちで一杯だ。翌朝、昨日紹介された李校長より親切にも電話があり、「貴方の知っている人がそちらに行くはずだ」。はて、誰か見当がつかない。ややしばらくして、その男は来た。満身に笑みをたたえて私の顔を見る。私の頭中は極度に急回転した。そうして50年前の記憶が出てきた。彼だ、彼に間違いない。あの日本名、山本君だ。山本艦隊だ。当時少ない朝鮮人学生と席が前後していた、名が艦隊というので、連合艦隊司令長官になぞって、司令長官とあだ名をつけ、ふざけあっていた間柄だったのだ。空間を飛び越えた再会。お互いに抱き合い、そして固い握手。今となっては国籍が相違するが、その垣根を飛び越えたのだ!

徐氏の紹介で次から次へと木浦の要人を紹介された。ああ、友好。そして友好。昼頃、李校長、男子校の校長 任校長、この人見るからに包容力のある方に見える。この方も立派な日本語で会話する。私、日本の田舎に行くと方言が多く、同じ日本人でありながら先生の日本語より下手な日本語を話す人々も多数おりますよ、と。各先生、日本の方言が多数存在していることを知らないらしい、「韓国でもありますよ」と話すがこの件については十分理解されていないようだ。「三島さん、貴方のお父さんのこと知っていますよ!」。どうして、時代も相違して半世紀以上前のことなのに。「いや、当時、貴方の親は、当地木浦で無線局長をしていたので、著名人の一員だった。それで、その発言や行動などが各所に反映していた。貴方のお父さんはいつも口癖のように”日本人も朝鮮人もない、皆同じ日本人だから馬鹿にしてはいけない”と言っていた」。そう言えば当時子供だった私にも心当たりがあったような気がする。


再会の盟友 徐 漢泰氏(左)

徐氏、通訳の沈氏、そして私だが、ここでは通訳不要である。開口一番、先生が言うのには「明日、高校、中学、小学の全生徒を集合させ、パレードをやりたい。それで言葉の問題があるでしょうから三島さんは壇上に上がり、ただ敬礼をしてくれれば良いのです」。驚いた。これほどまでに。これが本当の予備知識ゼロというのかもしれない。無下に断るわけにもいかないし、またもう一つ問題があった。こんな事例は日本ではありえない、こんなこと一生に二度とないのだ。それで愚妻にもこの光栄の座に座らせたいとの思いがあったので、来年にして欲しい、と説明して今回は辞退することとした。


左から木浦高校校長、教頭、著者、通訳の沈氏

その後帰宅して、実はこれこれしかじかと愚妻に説明した。愚妻言うのには「私は朝鮮に行ったこともないし、臭い辛い国に行きたくない」。勘違いも飛び越して、大勘違いの連続である。私は大失望した。こういう勘違いが消えないと。愚妻は元より、他の人々も同一感情が大いにあるはず。ましてや韓国民の立場になれば、想像に余りあると思う。真の友好の一里塚は、これが原点だと思う。他の同級生に、この件連絡した。そうして何人かが訪韓、それに大阪テレビも随行し、それこそ大々的に新聞に掲載された経過も知らせてきた。良かった良かった。日韓友好の機になったのだ。


日韓合同の同窓会

嗚呼、木浦よ木浦、生ある限り忘れない!

一週間滞在、帰国のためまた高速バスに乗車するが、長距離のため疲労が加わってきたので、途中、順天に一泊する。夕暮れ、目の前が繁華街なので見物と洒落込む。本の叩き売りを見物、何と本の3割は日本の本である。当時は日本文化が解禁されていない時期だったのに。またバス停には必ず日韓の辞書が販売されていた。表面ではうるさい事言っても、大衆には日本の姿が相当入り込んでいたのだ。

翌朝、高血圧のため薬を出す。そばで見ていたオモニ、「これは何か?」と質問する。通訳氏に説明してもらう。聞いたオモニ、「私も高血圧で困っているので是非」と頭を下げる。現在は不明だが、当時は日本のように健康保険がなかったらしい。ところがその時、多分息子だろう、出てきて「駄目だ」と手を振る。それも疑惑に満ちた目つきが凄い。やっぱり大衆はこんなもんだ。木浦が特別だったのだ。これを根絶やしにして初めて日韓友好だ。しかし町を散策しても何ら不快感は生じないみたい。これが共産国ならば油断もへったくりもなくなるのだ。各所で表情もまちまちだ。

それには相当年数を経過しなくてはならない。口先ばかりでは駄目だ。釜山到着、先を急ぐので横断陸橋を渡る。橋途中に何やら異様な女がいる。そばへ行くと一目でわかった。あの原爆症の女だ。私は初めてこの悲惨な様子を見た。体いっぱいにあのケロイドだ。もがき苦しんでいる。私はこの時くらい日本人としての責任を感じたことはなかった。どこの女だったか知らないが可哀相に。戦争のため斯くも無残な姿を晒しているのだ!深く掘り下げれば、未だ未だあるはずだ。それらが無くならないと、真の友好はない、とつくづく感じた。

悲喜こもごも、韓国よ、永久に共存、しかも友好で!