波乱に満ちた朝鮮物語

Japanese | Korean

第6部 赤い彷徨、必死の38度線突破、自由圏に到達

長くて悲惨な厳寒も過ぎ、気持ちだけは少しだけ和らぐ4月が来た。未だ帰国の噂は皆無であった。この時ちょっと気になる問題が生じた。一つは例のグレッサーである。ある日4~5人の同僚と共に自宅に来た。一人は彼より上官な感じ。何事か、新しい友人を紹介しに来たのか、と思いきや違う。彼が説明するのには「日本は負けて、今日本に帰国しても、第一アトムナボンブ(原子力爆弾)にやられて住むところもあまりないはずだ。将来は日本からアメリカを追い払い トウキヨ ダワイ(占領)するかもしれない。君は訓練すれば立派なソ連軍の兵士になれる。もちろん学校もすべて国家が面倒を見る。私も両親がいない。それでもソ連国家を信じたから、君も知っているとおり、幹部になることができた。パパそしてママよ、貴方の息子を侵略軍の兵隊ではなく民主主義を守る軍人にしてもらえないか!」。同行の兵士、一様にハラショ、オーチンハラショ(よろしい、大変よろしい)これには困った。日本人である私だが、帰国しても友人、学友など全然いない。ましてや卒業した学校なんてあるはずがない。父母兄弟がいなく天涯孤独の身だったならばいっそ、と頭をよぎるが、それにしても負けたりと言えど日本人だ。彼らは続けて言う「もしも希望するならすぐにでも・・・そうして君の父母兄弟は特別待遇で帰国できる。その上、日本に帰国してもソ連訪問は簡単だよ」。私は頭が混乱した。言葉にならない。黙して語らずとか。それから2~3回訪問したが私は同じ態度。遂に彼らは匙を投げたらしい。来なくなった。数ある日本人の若者の中には同調してソ連軍に入る、当然国籍も日本国籍を離脱する。今ごろはどんなことになっているのやら。年取って望郷の念がひとしおかもしれない・・・

確定した引き揚げの話も噂ばかりで混沌として、今日は何とか無事生きのびた。たまにはソ連給与も本当にたまたまあったが、最近軍事施設付近は警戒厳重で、隠れ隠れ顔知りになったロスケ宅を訪問する。そこまで到達するのは冒険である。要所要所には自動小銃を構えた兵士達が警戒の任に当たっていたからだ。不審者を発見すると銃口が火を吐く。冒険と呑気なことをいっている場合ではない。しかし私宅に入り込めばしめたもの、あの緊張感は霧散する。これはお国の違いの習慣かもしれない。なぜならばロスケ自宅の庭で仕事をしていると、通行中の兵士が時々冗談混じりに会話をする。

これは普通に道路を通行するのは危険だ、と悟り、目的地に到達するまで用心に用心を重ねたが、遂に仲間3人とも逮捕される羽目になった。逮捕といっても同行させられるのだ。ダメダ!シベリア!頭中が音を立ててぐるぐる回る。30分も連行されただろうか、元日本軍の防空壕跡に「入れ!」、半ば強引に押し込められる。暗中目を凝らせば内部に我々と同じような日本人が約20名くらいいる。全員私たちと同一意見、まさか銃殺はされないだろう!「俺には妻子がいる、死んでたまるか!」。悲観に満ち満ちた連続、約4時間後扉が開いた。出てこいの合図。闇夜同然に慣れた目には太陽が眩しい。そこは飛行場の片隅。全員整列させられる。責任者らしい将校、やにわに空に向けて実弾一発発射。そうしてこわばった顔で「カーピターン スマトリー ポク!(私が発見したら撃つ)」、そうして簡単に放免された。今考えてみるのに場所は飛行場、平和時ならば何と言うことではないが、重要軍事施設の一端なのでそもそも行くのが間違っていたのだ。(この飛行場は小泉総理が金正日会見で着陸した空港)それ以降、無駄だしかえって危険が伴うので、自然と疎遠になった。

7月になるとさすがに暑くなってきた。しかしここは北国、木陰にたたずむとヒンヤリとする。少し疎遠になってきたが親友の全君は来てくれる。私もいつ此処を脱出するか不明だが、この際自称私の宝物を全君にあげることにした。というわけで彼の自宅に全部持ち込んだ。例の古銭、30センチメートル大の鉄製の仏像、この仏像は10年前に父が新義州で掘り起こしたものでコモに無造作に包まれていたものを朝鮮人から購入した品である。抱きかかえると想像以上に重い。製作年月日も定かでない。知人達は、中に金がはいっている、との噂であった。他にも色々とあった。「三島君!」、彼は涙声で茫然として言う。「君と別れるのは断腸の思いだ」。こんなことになるのは分かっていたが、多分引き揚げ先はこれこれしかじかと本籍を記入した。しかし彼からの手紙は来なかった。引き揚げ後も彼の面影を追い求めた日々が続いたある夜、母が突然飛び起きて「昭!恐ろしい夢を見た」、何の夢でしたか?「それが全さんが銃殺されるのをはっきり見た」。なんぼ夢とはいえ胸騒ぎがする。これは確か昭和25年で朝鮮戦争の頃だった。それから10年の歳月が流れたある日、新聞紙上に北からの亡命者が米軍の猛攻で、陥落寸前の平壌の大同江河畔で政治犯500名を銃殺にしたとの記事があった。夢といいこの記事といい、何となく符号するような気がしてならないが、そんなことあってはならない。もしも現実だったら、私は日本人、彼は朝鮮人、それがため、そのそしりを免れないような気がする。そうして現在でも私の心の傷になっているのだ!もし生存しているならば一目会いたい心の友全君!

8月初旬になると平壌以外で脱出の噂がちらほら耳に入る。あれだけ無数にいた日本兵も姿を消した。多分シベリアだろう。あの思い出すのも嫌な屈辱の日がまた来る。町では臨時革命政府樹立のため技術力のある日本人大工をできる限り募集して、その建設に余念がない。ソ連式の毒々しいあの原色のアーチがその象徴だ。元日本軍志願兵も日本式の軍服から新式の軍服に衣替えしている。

チネハン ヂドシャ キムイルソン ドンジ マンセー ウリナラ マンセー!
(親愛なる指導者 金日成 同士万歳 我が祖国万歳)

政治の大変革、幸か不幸か一生に二度見れないような光景を眼前に深く焼き付けられたこの一年であった。

38度線、これが耳に入ると今でも恐怖と戦慄が走る。平壌から南鮮(現在の韓国だが当時はこの表現)の開城までは160キロメートル、何だこんな距離は車で簡単だと言うが、当時と現在では物の考え方もそうだが尺度がなにもかも相違する。道路といっても曲がりくねった、しかも舗装なんてハイカラな道路はほんの一部しかない。デコボコ道、道幅が狭幅、トラックは木炭車、馬力が現在の何分の一。したがって上り坂を走行すると息切れがして遂には停止してしまう。ざっとこんなもんで他は推して知るべし。これが現実だったのだ。


初期の38度線の標識

夢にまで見た引き揚げと言えば聞こえは良いが、これは体の良い脱出である。脱出といっても、ただではトラックに乗車させてくれない。その資金づくりが第一歩であった。一人2000円、それも完全な軍票。100円は通称赤札、10円は緑、そうして5円は茶色である。通貨に信用があるならば少しくらいシワになっていても問題にならないのだが、その信用性が不確定ならば少しの傷があっても不渡りに近い状態になるので、それを受け取る時には慎重が必要であった。必死になってその資本作り。それが不可能ならば徒歩で行くしか方法がない。

そうして困難を極めた引き揚げも暗黙認の了承があったからである。第一にソ連軍の許可、それに北朝鮮政権の了解。了解といっても、その下部の承認も必要なのだ。船橋、西平壌、平壌の各保安所がそれである。それが日本人会の必死の嘆願で実現できたのだ。ことに北朝鮮首班の金日成もなかなか話の分かってくれる人物だった事も成功の一助になっていたようだ。「困難を極めるに違いない、それで黙認してきていたのだ。」とは当時その件に当たった当事者から直接聞いた話で、今でもまざまざと記憶に残っている。

某日夕刻、待望の闇トラックが到着。皆バッタのように荷台にひしめき乗車する。所持品は安全地帯までの必需品一切、あえて表現するならば乞食袋の寄せ集めだ。それに子供をいれて約60人。これに乗車しなければ”死”しかないので皆必死だ。初秋の夕暮れはあっという間だ。早い闇夜の中トラックは金切り声を上げながら走行する。前方に簡単な木製ゲート出現、それを一気に撥ね退けての走行。遥か彼方でソ連軍兵士が右往左往している。誰かが「伏せろ」、闇夜に閃光が頭上を走る。走行雑音の中で深いため息が各所で起こる。安心感のため息。ゲートの人員は少人員が幸いしたのか?どうも彼らは横の連絡が下手なのかもしれない。それに曖昧さが加算されているから、思考より甘かったり、場合によっては辛かったり。これが民族間の相違なのかもしれない。それから同様なゲート通過が2回発生する。敗戦の民衆はいつもこんなもんだろう。けれども今のところ全員何らの異常もない。これが何よりの幸いかもしれない。そして、これからも無事でと、祈るしかない。

やや走行するとトラックは急停車。下車して運転手が言うのには「燃料不足でこのままでは目的地に行かれない」。燃料不足といっても付近に人家なんぞ見当たらない。そうして真の闇夜。仕方がない、彼らだって命がけ。なんらかの金品を絞り出すように差し上げる。地獄の沙汰も金次第。貢物が効いた。そうして発車。そんなことが2回。彼はこの道のプロなんだ。しばらくして運転手曰く「今度が最後のゲートになる」。段々灯りが接近する。やはり検問所だ。5~6名はいる、ソ兵2名、朝鮮兵4名、各自例の自動小銃を肩からぶら下げている。「ストイ!(止まれ)」と叫ぶ。持ってきた品を全部出して広げる。検査である。そうして詳細に調査である。我々の持ち物には高級品なんてあるはずがない、全部ガス物ばかりだ。ああでもない、こうでもない、ロスケ特有な調べ方。それに補助役の朝鮮兵。約1時間も経過しただろう、何も出ないので「ハラショ」、合格のサインが出る。そこまでは良かったのだが、幕舎の片隅に酒瓶が転がっている。そういえば彼らの足元が少しふらついているみたい。それでは出発、全員でスパシボ(ありがとう)頭を下げ、バラバラと乗車し発車オーライの瞬間、一番恐れていた「マダムダワイ(女を出せ)!」、指さすのは何と私の妹だ。(当時16才)各所で悲鳴が上がる。それにもかかわらずロスケがトラックの荷台に手を掛け始めた瞬間、同乗者「私たちは元々商売人だったから」と口々に叫び飛び降りる。どこの出身者だったか。同胞愛、こんな綺麗な言葉では収まりがつかない。しかし、もう一人獣化したロスケも騒ぐ。するとまたしても思いも掛けぬ事態が発生したのだ。朝鮮人兵士である。「皆さん、私は日本人に世話になった。それで御礼としてあなた方を助けるから、早く逃げてください」。何処のどなたかは知らないが、陰徳あったお方が実在していたのだ。ちなみに、当時の日本人対朝鮮人との関係は、個人対個人はほとんど摩擦なんかなかったようだ。私もほとんどこれらの件を見たことがない。ただ、警察関係は確かに見過ごされない場面があったかも知れない。かえって帰国後、皆の話を聞くと、日本国内でその片鱗を見られた過去があったような気がした。だからこのように朝鮮人が日本人を助けるという結果が出てきても不思議ではないと思った。「どうもすみません」。両手を出して拝むようだ。最大の難所はひとまず逃れたのだ。

遅い秋の夜明けがきた。白々とした田舎道の街道を走る。「ヤイ、日本人、負けて逃げていくのか」、地元の子供たちが投石する。その度に運転手は怒鳴る。昼頃、とある人気のない道で一休み。ちょうど通行中の朝鮮人「日本の方、私見たのだが、これより少し遠路の部落に日本人の子供がいるよ」、どうして?「7才くらいの女の子、もう一人は5才くらいの男の子」、してどうしているの?「どこから避難してきたか分からない。毎日乞食のように貰っているよ」。母は死んだらしい!それは、と言ったものの、悲しい、残念だけど、今の我々にはどうすることもできない。あれからあの二人はどうなったものやら可哀相に。日頃なんだかんだ言っても、やはりイザともなれば、赤い血潮が流れている同胞だからこそだ。似たような話は各所で何回か耳に入ったことがある。

疾走中のトラックの中でも親友であった全君のことは時々思い出す。彼のことだから以前の自宅に行ってみたものの、もぬけの空。こうなることは仕方なかったが、彼のなんぼガッカリした様子が手に取るように見える聞こえる。僅かの年月の親交だったが終生忘却されない友になっていたのだ!

不思議なことに平壌から離れるごとに、何だか知らないが、その土地の朝鮮人の態度が良くなってきたような感じだ。大人はもちろん、散々悪態を叫んだ子供たちまで物腰が柔らかくなってきた様だ。もっとも敗戦前を思い出しても、失礼な態度、仕打ちなどあまり記憶にない。だから、例の乞食になった孤児にも惨い仕打ちは起こらないはずだ。

程なくして運転手、「これ以上は我々でも危険だから行くことは不可能だ」。仕方がない、今まで何とか此処まで運んできてもらったのだからと、全員下車。僅かだがほんの一握りの品を差し出す。運転手は乗員一人一人に握手、「どうか無事に帰国してください」と言って、いち早く立ち去った。彼らだって善意の持ち主だったのだ。今までの仕草は生活、家業のために必死だったのだ!降ろされた場所から38線までは約100キロメートル。老人もいれば、いたいけな幼児、子供もいる。それでも徒歩で行くしかない。

幸い秋晴れ、日本晴れと言いたいところだが、ここは朝鮮なので朝鮮晴れと言ったほうが無理がないようだ。日はまだ高い。ゾロゾロと一団は歩く。秋の夕暮れは早い。丁度橋があり、これ幸いにと橋下をねぐらとして一夜を過ごす。陽気も程よい節なので無我のうちに熟睡する。翌朝、早々と出発。食事は何を食ったのか今となっては定かではないが、たとえ食ったとしても、まともな品ではなかったはずだ。黙々と歩く。平和時ならば会話もあったのだろうが、ここにはそれがない。昼過ぎ、第一番目に、私のそばを杖をつきつき歩いていた婆さん、名は榊原と言っていたが、あと多分孫であったろう9才くらいと5才くらいの女児と同行してた。母親と父親らしい人物は一緒ではなかったようだ。その婆さん、70才くらいだったが、突然ヘナヘナと地面に座り込み、「私はもう駄目だ。皆に迷惑をかけるから、私をこのまま置いてくれ。朝鮮の土になるしかない」。そばにいた孫共々半泣きでうずくまる。何だ婆さん、何を馬鹿なこと言っているのだ、さあ、我々がいるのだから、と言ったものの、一人で背負うのはとても無理だったので、丁度騎馬戦のようにして交代しながら婆さんを運んだ。そのうちまた恐れていたことがやって来た。今まで無言の連続だった子供たちがグズグズ言い始めたのだ。無理もない、ろくでもない食い物と疲労が加わってきたのだ。子を持つ親が叱り飛ばす。親自身も疲労困憊しているのだ。段々と一時休息の回数が数を増す。2日目の夜は何とかお茶を濁し木陰で一夜を過ごす。3日目もカラリと晴れ上がっているのは良いのだが、子供たちのグズグズの声が一段と大きくなってきたのだ。疲れている中でも比較的元気な若者が子供たちを背負った。最初私がおぶった女の子7才くらい、背負うとたちまちのうちに凄い寝息。よほど緊張と疲労が重なっていたのだ。その他の子供たちも騒ぐ。30分もして降ろす。子供でも良く分かるような言葉で、順番があるから、もう少したったらまたおんぶしてあげるから、歩かないと殺される、彼女は「分かってる!」、子供も大人も皆必死の行程である。そうして3日目の夜も更ける。

4日目、今日こそは38線付近に到着できるはずだ。昨日にも増しての疲労、必死なんて言うものではない。何とかかんとか夕刻、38線らしき山並みが眺める広場に行き着いた。そこには多数の先着者、約1000名もいたのだ。そうして朝鮮人の男がメガホン片手に叫ぶ「お前たち日本人、お前たちは軍国主義の犠牲者だ。あれを見ろ」。見ると片隅の一団、200~300名はいただろうか、姿格好が凄まじい。ボロ服なんて言うものではない。散々、大苦難の道を辿ったのが歴然と露出している。あれを見れば我々なんて問題にならない。聞けば新義州からの脱出者の一群だ。メガホン男、立て続けに「全員食糧を出せ」との命令だ。全食品を出す。「お前たち可哀相に」と言いながら、比較的持っている者から、持たざる一群に配布する。「何日食わなかった?さあ、食え」。言う男も涙声ならば、貰う方も涙声。中には両手をあわせ「ありがとうございます」。脅えた子供たちにも分配であった。


引き揚げ時に持参した飯盒と鍋。これも途中で売ってしまった。

夕刻、恐れていた小雨が強くなる。辺りは闇夜、そうして地理不案内。小丘の彼方にボンヤリ民家の灯り。家族全員で手を繋ぎ繋ぎ灯りを目指す。品物?そんな品物持っていくのが無理だ。足元は田だか畑だか山道だか見当がつかないまま民家にたどり着いた。部屋は見た目より割合広く、しかも住人は親切だ。オンドルなので下はホカホカ。ここで一夜を過ごさせてもらった。朝方、出てきた老婆が呟くように言う、「日本人は今、負けて帰るが、またヤンバンサラミ(金持ち)になるよ」。学はなくても先の見通しがあったのだ。実際それから5年も経たないうちに朝鮮戦争が起こり、この場所は鉄の三角地帯の名称をつけられるほどの激戦地帯になっていた。

夜が明けると共に、さんざめいた秋雨も降り止んだ。あの残した品物は。皆同じで見当をつけながら昨夜の場所にたどり着く。あるにはあったが、我々より先客があった。朝鮮人オモニ(おかみさん)達が大カゴを持参して収集中である。カゴに入れれば彼女達の権利になるのだ。何とか我々の物を拾い集め、38線目指して境界線のそばの麓にたどり着く。4~5名のソ連兵の検査があるが、これといっての品は何もない。ただし写真類は不可であった。最後に「ハラショ!(よろしい)」の一言。千金の重みに等しい。遂に突破できるのだ。無言の歓喜でもあった。

我々は今までとんでもない駄物ばかり食って生活してきた。ただ、こうして一応はあの脱出トラックに乗車できたのは、第一に健康、第二に乗車する資金の調達、いずれが欠けていてもそれは乗車条件にはならないのだ。もちろん国の支援とか補助金なんていうものは夢想する方が可笑しいのだ。敗戦により、国から見放された、いわゆる流浪の民の一歩手前でしかない。しかし、これが未だに交戦中だったなら、と想像するだけでも冷や汗が出るほどだった。この肝心のトラックに乗車できなかった人々の運命は!無残な様子が手を取るように想像できる。引き揚げ後、それらの手記を読んだことがあるが、あの人たちから見れば我々の苦難なんてたいした事ではなかったようだ。病弱者はそのまま打ち捨てられて異郷の土になるしかない。実際、引き揚げ直前、自宅付近で顔知りの長崎出身の斉藤さんという方がおられた、年齢は60才くらい、小市民的な方であったがれっきとした所帯主、その方がチフスに感染し、「はやく長崎に帰ってあの素敵な日本の水を飲みたい」と再三うわ言のように話されていたが、あっというまに死去。家族は、もちろん何人かおられたが、それから先は一切不明である。また陸路を徒歩で38度線まで辿り着いた人々から聞いた話では、約3割の人々が途中、望郷の念にかられながら遂に帰らぬ人々になっていたのだった。それを証拠に、最近その関連の資料に目を通したが、38度線付近でもかなりの死亡者が実在している。そうして今にして思えば、我々を運んでくれた朝鮮人のトラック運転手も善意の人々だったから良かったのだ。数ある運転手の中には悪徳運転手も実在し、奪うだけ奪われて、途中打ち捨てられ、散々苦労した人々の話も聞いた。もっともそんな事やられても文句の言い様がなかったのだ。我々は不幸中の幸いの部類に属していたようだった。我々は地獄からの脱出に成功したのだ。

険しくもないダラダラ坂を登りつめた頂上で境界線突破だ。皆一様に今まで苦難を味わった北の山々を眺める。あそこで苦労したのだ、もう絶対に行くものか。今にして思い出す韓国の”釜山港へ帰れ”の歌。私は別に共産主義の教育を受けたはずもないが、自由の地に逃れた時の感情が、あの歌といつも二重写しになる。何と言ったらよいか、頭に被せられたものが、いつのまにか消滅した。こう説明した方が良いだろう。

38度線突破の感激もひとしおに、ダラダラの山道を下る。程なくして朝鮮人の一群が待ち構えていた。手にはそれぞれ獲物を持って。あれは一瞬ひんやりする。彼ら「皆さん、酷い北を無事に逃れて来られ大変だったでしょう。もう大丈夫。もう少し先に米軍の収容所があり、案内します。食事もあります。全く北の連中はこんな酷い有様にして!」と親切の言葉で一杯だが、散々懲りているのでもう分かっている。恐る恐る最後の貢物を出すハメになった。

指示どおりにダラダラと行列は続く。夕日が落ちて闇夜になる。何時間歩いたか。今朝から胃には一物も残留物がなくふらふらで歩を進める。時折りトラックに乗った朝鮮人が「間もなく」との連絡のため走り去る。行けども行けども先は見えない。しかし文句を言う人もいない。声を出す元気も枯れ果てているのだ。真夜中、恐らく時計の針が翌日になった頃だと思うが、前方に大群の薄明かりが見えてきた。そうしてそれが段々近づく。来たのだ。入口には開城収容所とある。大テントの群れ群れ。それぞれテントを割り当てられる。アナウンス、「食事は朝7時頃ですから容器を持って配給所に集合してください」。朦朧とした朝が来た。食事が一番だが、容器?そんなものあるはずがない!誰かが「空きカンが一杯あるよ」。行ってみる。あった。米軍が使用して投げ捨てた空きカンだ。それでも今は宝物。なるべく大きいカンを拾ってくる。これだけあれば両親兄弟も満足するだろう。食事を貰いに行く。丁度ゴエモン風呂、昔使用した鉄製の風呂、あれです。水をなみなみと満水にして、それにトウモロコシ一俵と大の牛カンを投げ込み沸騰させ、大しゃもじで持っていった空きカンにバラバラ。持ち帰る。早速速成のスプーンでそれぞれ食するが、一人スプーンでさらっと2口。それで完了である。売店は金さえ出せば何でも購入できるが、横目で拝むしかない。ままよ、仕方がない、僅かでも食わせてもらう。そして安全、帰国もできる。北朝鮮と比較すれば雲泥の差なんだ。ところが運命は少し微笑みかけてきた。若者の使役募集、すぐに採用。力仕事と思いきや、なんと食事係。大釜に水を搬入、例の品々を投げ込み、炊き上がるまで火の様子を見つつ、炊き上がれば各テントに分配。仕事は楽だし、そのおこぼれは十分余るくらい。お陰で親兄弟も満腹感を久しぶりに味わったようだ。もっともその食事事情が、一巡したのか、徐々に緩和されてきたようだった。

ある日全員集合のアナウンスがある。取るものも取りあえず集合。なにごとか。日本人会役員が次々と壇上に立ち「皆さん、我々はなんとかして脱出できたが、未だにあの地で呻吟している同胞がいる。我々の中で、必死に北へ潜入、また米軍上部にも数知れずの嘆願をしている。これらのことを十分承知してください。敗戦の結果、日本は三等国どころか四等国に転落した。帰国後は日本を再建して、せめてフィリピン並みの国になりたい!」。壇上も涙、聞く方も涙。こんな事あって良いのか。現在でもあの時の悲痛の叫びが耳に残っている。チクショウ今度は負けてたまるか!炊飯係も慣れたある朝、米軍二人の会話が耳に入る。「イヤー昨夜は飲み過ぎて!ハハ」、「今夜は少し遠慮するかなハハ!」。この会話が耳に入って、やはり戦勝国なのだ、我々は身につまされたが、敵愾心は露ほど生じなかった。

半月後、待ちに待った乗船のための貨車に乗る。目的地は、朝鮮戦争でマッカーサーが逆上陸し戦局を逆転して有名になったあの仁川港である。途中、連絡のためか貨車は停車する。目前の道路は、移動するのか、多数の米軍が往来している。同室の子供たち、車外に出る。立ち止まった米兵、今まで見たこともないチョコレートなどを子供たちに分配する。子供たちまた要求する。そのとき車内から一喝が飛んだ「お前たち、いくら敗戦になったからと言って、心まで腐ったのか!」。それに驚愕して子供たちは車内に戻る。これは重大な実務教育、引いては日本再建にまでの一助になったかもしれない。それから1時間もしないうちに黒人兵が両手に山のような品を持ち込み「チャプチャプ オーケ!(女と良いか?)」、ノウ オノウノウ(駄目だ駄目だ駄目だ)、兵、すごすごと退散する。誰かが「違うんだよな、あの国とは!」

目的地の仁川港に遂に到着。ここの港は干満の差が約9メートルのため、引き揚げ船は遥か沖合い。この仁川の地名は日本語でジンセン、ここは朝鮮併合以前から日本と縁が深い場所で、それにつれ幾多の歴史があり、多数の日本人も居住していた。月尾島もことの外有名で、ここも併合前から日本と縁があり、そこには神社まで設立し遊園地もあった。

翌早朝、米軍使用の上陸用舟艇に乗って、夢にまで見た引き揚げ船高砂丸に辿り着く。日本船だ。その証拠に船尾には日の丸が高々と翻っている。8000トン、元病院船、高砂丸は舷側は見上げるほど高い。よくしたもので上甲板に乗船できるようネットが張られている。大人も子供も例の年寄り榊原の婆さんも生の執着は物凄い。普段ならばとても出来る芸当ではない人々も、ネットを掴み掴み続々と上甲板めがけて駆け上がるようにして這い上がる。這い上がった。上甲板は一応整備したのだろうが、戦跡は相当なもの、敵機攻撃用の高射砲の群れ、もちろんペンキはずたずた。それでも良く生き残った。そうして下部の大部屋に案内される。ここに来るまで、帰国叶わず幾多無念の死を異郷の地に曝されている人々いることやら!船員、看護婦さん全員が日本人であるのが嬉しいし、負傷しているとて高砂丸自体が日本の匂いである。それにしても、今までの朝鮮は、敗戦前後を問わず、いったい何だったのか。親切だった、友人だった、知人だった、あるいは憎しみの目でいた、全さん、劉さん、車さん、邉さん、曹さんらの顔また顔が眼前に彷彿として浮かび上がる。嗚呼、私はやっぱり朝鮮生まれ、色々と酷い目にあったが、やはり愛着があったのだ。忘却できない私の第二の故郷になるかもしれない。私の実感である。

貧しい食事、コウリャンの薄い粥、それもわずか。幼児たちはそれでもガツガツ食う。そうして持っていたお椀を手から外そうとしない。見るに見かねて自分の分まで差し入れる母親が多かった。ろくに食ってない母親たちはフラフラ。その上頻繁なトイレ、トイレなどと上品に言っているが、臨時で急ごしらえの便所、しかも遥か上部に設置されているのでそこまでたどり着くのが必死の状態だった。しかしフラフラでも帰国の光がある、喜びがある。「坊や、もう少しだよ、お前の国、日本に着くのだよ!」

船内は喜びに包まれて毎夜の演芸会である。なかには本職の芸人も多々いて、その芸も素晴らしいものであった。記憶に残る済州島付近を通過する。何年前だったか、同一航路を通過した思い出があったが、その時は平和で大連航路の客船が航跡も白く航行していたのが思い出す。引き揚げ者たちは、今こうして親しくしていても、帰国後はバラバラになり再開は出来ないだろう。それがもしあるとすれば、それは本当に偶然のことだろう。出会いは別れの始まりだとか!

4日目、念願の上陸地である佐世保港入口の海岸線が見えてきた。私は日本人でありながら日本本土を初めて見た。緑したたる国、この表現に間違いはない。本当に緑したたって、これは全国何処へ行っても同一同様である。大陸独特のあの禿山、全山、あそこにこの緑があるなら知らせてもらいたいものだ。そばでヒソヒソ何やら相談している。耳をそば立てて聞くともなく聞くと、敗戦直後、秘密が漏れるので一人殺したらしい。こっちがやらなければ反対にやられる。こんなこと、あの混乱期だったからあっちこっちで発生したのだろう。こんな話はイヤダイヤダ。

「おめい飯食っだか」。初めて聞く東北弁。驚いた。乗船者の妻が夫に言った言葉だった。あの人は多分山形県出身。朝鮮に行って日が短く、方言が直らなくて、そのまま使用していたのだ。本当に驚いた。敬語も糞もない。私は初めて日本人の言語の本質に触れたのだ!植民地生まれの私は知らなかったのだ!翌朝、甲板から佐世保港を眺める。例の榊原の婆さん、口癖に「私は帰るところがない」。それは他の人々も口に出していた。無理もない、何代もかの地で生活しており、籍はあるのだが、本籍に帰ってみたものの、顔も知らない知人もいない、いわゆる縁が切れているのだ!顔知りは無形の財産なのだ。戦争そして敗戦で此処にも多大な被害者が続出していたのだ。中には17才くらいの女子を指さし「この児は私の仇の児だ!」とか。しかし悪い話ばかりでもない。かの地にあったとき、身分の格差で片方の両親から結婚を反対されていたらしいが、元々本人達は仲が良かった。そうして敗戦により何もかもご破算、当人達、今では夫婦になっているのだ。それからどうなったかは知らない。そうしてあの榊原の婆さん何時も片時も身にぶら下げていた水筒に箸を入れくるくる回す。出てきたのはなんと札だった。保身の分際を心得ていたのだ。あれから20年後、神奈川の某所に行った折り、たまたま引き揚げ話に及んだ。あの榊原さんの話を出したところ「あれ、その名前の飲み屋があって、確か北鮮からの引き揚げ者と聞いたが。そこからあの有名な歌手も出ている」。それが本当だとすると私が背負った女の子のどちらか親なのだ。年齢も合うようだ。偶然の一致かもしれないが!

あの混乱の中、親しくしていた人々も多数いたが、あれからの行き先など全く不明。大体帰る場所がある方が稀なのだ。たとえ帰る場所があったとしても、そこはそこ、第一戦災にあった場所かもしれないだろうし。希望としては落ち着く先が大家で、一時的ではあるが同居が出来る家、しかしそんなことを思ってみたところで絵に描いた餅のようだ。かつて朝鮮に渡った多くの人々、故郷で裕福であったならば好き好んで朝鮮まで行くはずがない。中には一儲けと企んだ御仁も無きにしも非ず、とは思うが!大体、そのように決め付けるが、案外的を得ていて正論だったかもしれない。

上陸した途端、大きな社旗を靡かせながらメガホン越しに「鐘紡出身者はいませんか」と叫ぶ。そばにいた人の良い一家5人の田部さん、そこへ走り寄る。「貴方、鐘紡出身者ですね?」。頷く田部さんに「貴方には当社の家も仕事もありますから、安心してください」。最初はキョトンとしていた彼だったが、ボロボロ涙を拭きもせず、「ありがとうございます」。彼一家はどん底から引き上げられたのだ。思っても見ない好運が舞い込んだのだ。この様な好運者は彼一家だけだった。しかし田部さんとは違い、我々は今から苦労をしなくてはならないが、第一に命の保証、第二に今から蓄積できるであろう財産も保証されているはずだ。希望も出てくる。

2~3日して、いよいよ解散。当てにして行く先がある人々は早々と出発。さようなら、さようなら、手を振る。行き先のない人々は割り当てられた引き揚げ者専用の仮宿舎に出て行く。今後、彼等たちとは再開することは出来ないだろう。我が一家も、当てにしている母方の鹿児島へ向けて出発だ。