広い部屋で6畳、狭い部屋で4.5畳、一部屋に一家族が4~5人ずつ。襖を境に、就寝はもちろん、食事など全てである。それが6家族が同一の屋根の下。半分は満州からの難民。高価な品があるはずもない。在住者でも売り食い、またそれに近い生活。ただ我が家では隣の朝鮮人が「何か困ったことがあれば言ってくれ。また品物も我々の家で隠してくれるから安心してください」との申し出があった。本当にありがたい!大通りには日本軍から奪った軍刀を20才にも満たない青少年に該当する連中が不似合いの格好で腰にぶら下げ徘徊している。
遠縁に当たる男の所在は?これというのも朝鮮語の新聞に大活字で旧日本警察内で殺人事件発生、その殺害者を調査中と発表していた。あるいは?もしもとの疑問が生じたので、その詳細を知っているのではと父に聞く。そんなこと知らない!それが日本上陸後に判明した。殺害された人物はもちろん朝鮮人。元々親ロシア派で日本軍関係の情報を密告していたらしい。それがどうした関係か、その後日本派に鞍替え。言語は日ソそして朝鮮語の3ヶ国語が自由自在。日本警察はこれに答えるべく、当時独身者の彼に美人の妻をあてがい、立派な住宅を与え、給与も相当高額だったらしい。ところが日本敗戦の結果、それが仇となってしまった。内部が暴露されれば全員犯罪者。このことは絶対にもみ消さなければと緊急命令を受けたのは、ただ一人の警部。他の警官は全然知らない。ある日奥まった一室に約10人を参集。この朝鮮人もそのうちの一人。簡単な世間話をしている最中、その警部曰く「今後どんな事態が生じるか不明だ。それで我が身保身のため全員にピストルを手交するが、その前に取り扱いを説明する」と言い、やおら腰からピストルを抜く。「こうしてヤルんだ」とそれを宙に回しながら、突然同席の朝鮮人めがけてズドン!続けて2~3発でとどめをさす。鮮血まみれに息絶えた彼を前に「全部私が責任を取る。早く始末して一刻も早く逃亡してくれ。俺も行くから。俺は同席して事情は全然知らなかったかが、もし発見されれば俺も同罪だから一刻も早く」と言いながら「しかし可哀相なことをした」と言いつつ立ち去ったのだ。彼の消息はあれっきり。現在健在ならば恐らく90才は越えているだろう。勝っても負けても被害に遭うのは一般庶民、その犠牲が恐ろしい。
この一文を書いただけでも”身の毛がよだつ”とはこのことだけれども私には未知の場所。そして満州も交えて未だ未だ悲惨の例が無数に発生していたはずだ。親友の全君は相変わらず来訪するが、最近は夕暮れ時にコソコソと身を隠すように来る。話題の中身は近日に発生した話、それに最近再開した学校の話題。特に中途半端だった英語授業のこと。見せてもらう。教科書が全部日本語だ。印刷にまで手が回らないのだろう。新政権は、若者の学力低下を恐れ、害のない本だけは暫定処置として、このような教育施策をとったのだろう。かつて日本でも敗戦直後には軍国主義の場面は墨で黒く塗りつぶした経過があったが、それに似たようなものだ。
あれは10月半ば、愈々ソ連軍の本体が入場するとの知らせがきたが、それは当日の夜半から開始されてきた。ゴオゴオとキャタピラの轟音。自動車の大群、また大群である。それを人込みに紛れて2人で早朝から見物した。全君とは日本語で会話していたせいか、それを背後に立って聞いていた朝鮮人の男が、やにわに私たちの前面に立ち「お前達は日本人だな?」、はい、「俺たちは勝ったのだ、何か文句あるか?この侵入者、お前達のおかげで散々酷い目にあった」。当然何発かビンタの制裁を受けると思ったが、「お前はまだ若いな。今回はこれだけにして許す!」。虎口を危うく逃れた。何しろ無数の人込み、場所を変更する。
まず巨大戦車に圧倒される。スターリン号戦車。当時の日本戦車は精々10トン未満、それもほとんど南方に引き裂かれ取るに取らない数だ。それに引き換えソ連のこの戦車は100トン。無数の対空砲火が上部に設置されてあり、何しろ巨大という他ない。そうして上部ハッチ(出入り口)には梯子で出入りする。日本の入場式の時は整然として一糸乱れぬ入場だったが、様相が全然相違する。林檎を齧る兵士、戦車の横に寝そべるようにしてアフターマーク(自動小銃)で実弾を上空に向けて連続発射、多数の女兵もスカートを靡かせ同じこと。正規の軍服は何割が着用していただろうか。軍帽はソ連だが、他は全部日本軍の軍服。中には帽子まで全部が日本の軍服。それに軍靴はワラジ履きの兵士もいる。中身が本物ならそれで良かったのかもしれない。女兵、玉蜀漆を生のままガリガリ。芯まで全部胃の中。これらの女兵は独ソ戦の折り、ヨーロッパのハンガリーで激戦を交えた精鋭兵士だったらしい。それにジープの大群。これは米国給与の一端なのだと直感的に感じた。これでは負けるのも当然だ。珍しさと敗北感が混合した。全君が叫ぶ「金日成(キムイルソン)が来るよ!」。ソ連軍に挟まれるようにして少員数、青い軍服の軍人がジープに乗車しての入場である。この人々について朝鮮人の間では、独ソ戦の折りあの激戦地スターリングラード(現名は相違)、クルスク、スモレンスクなどの戦場において、独軍と再三にわたり、ソ連軍と共に熾烈な戦闘を繰り広げたらしい。当時金日成の部隊は日本軍の軍装とあまり大差ないカーキ色の軍服で、しかも顔つきも同一のため、独軍は日本軍と誤解したらしい。それがため、各所で作戦に遡行をきたし、引いてはソ連軍作戦を勝利に導いたと、真偽は別として何回も耳に入っていた。中央の金日成を確かに拝見したが、瞬間的に従属の集団の感じがした。しかし、敗者と勝者では同一情景を見ても大異してしまうのは自然の成り行きだろうが、過去の感情など諸々の想い出があるので簡単に打ち消すことは出来ないのだ。思い出すと約6ヶ月前、朝鮮人の李君は何かと「今の戦局は何とかならないのか」と怒ったような顔で言ってきたことがある。そうして「三島君、俺も立派な日本人だよ!」と言っていたが、それが豹変した。思想が変化したのだ。「日本人と朝鮮人は水と油だ。なんぼ内鮮一体と言っても混合できるはずがない」。その時何と回答したか記憶は忘却したが、多分、お前は何ということだ、今までは同じ日本人だったではないか!と言った気がする。だが現実は眼前の通り。世界が逆転した。悪が善になったのだ。
ソ連軍が入場したその夜から恐れていた略奪が始まった。多分日本軍も占領各地で同一の行為をしていたかもしれない。それが為、無駄と知りながら住宅入口はバラ線などで周囲を囲み防御策の一助とした。夜になると悲鳴、発砲などは普通の状態になった。あれから一週間後のある日、「スコブルニエット?スコブルニエット?」と若いソ連兵士が土足のまま上がりこんできた。武器などは持参していなく、誰かがスコップだと思い彼に見せる。ところが大げさな表情を見せながら、違うと、手を振るが彼の希望の品は見当がつかない。これが最初のソ連兵との個人的な接触だった。
自宅から300メートルもあっただろうか、そこにあった元日本人の住宅にソ連兵何人かが駐在した。あとで判明したのは例のスコップ男、彼は19才、名はポール。一等兵で、何を犯したのかは知らないが刑務所から直接軍隊に入隊させられたらしい。(ソ連軍は朝鮮の戦闘で100万の犠牲者を予定し、それがためそのような兵士を充当させた)あの問題だった例のスコップは何のことはないスプーンを探しに来たのだった。彼は何といっても一等兵。上官の下働きをするのが使命であるから・・・
ソ連軍入場から、朝鮮人の日本人に対する締め付けは一層厳しさを増した。ある朝、「三島おるか!」、4~5人の屈強な朝鮮人が入ってきた。「はい、私です」と父の返事。「ちょっと用事があるから一緒に来い」。同行である。立ち去った後母は嘆く。「これはシベリアだ」、それを証拠に筋向い10年も以前に警察を退職した60才の元警官はシベリア送りになったらしい。それではないか?一瞬茫然となる。ままよと疑心暗鬼ながら過ごす。ところが夕暮れ時、貧しくて禄でもない夕食を家族と無言のまますすっていると、「ただいま」といつもの父の声がした。飛び出す。何事もなかった様子。良かった!どんなことをされたのかと、母が問う。「実はあれから元朝鮮煉炭株式の広場に連行されたが、郵便局庶務課長の鈴木さんも一緒だった」。そこで朝鮮人たちは「鈴木、お前は紙くずの国債を販売した。それがため購入した日本人は自業自得だが朝鮮人に誤魔化して売った。どうするんだ、責任を取れ!三島、お前は少しだけれどもここの労務部長をしていた、そうして毎朝朝礼であそこにある神社に全員参拝させたろう。あの中には確か神様がいるはずだ。お前、それを出して見せろ!何だお前、返事がない!さては嘘を何時もついていたのか!一人は紙くずで嘘を言った。三島も同罪で神様がいると称して嘘ばかりついた。尻を出せ!」。尻を出すとバットで何回か殴打されたが、どうも本気の殴打ではなかったような気がしたらしい。「お前達、なんぼ言ってもここでは改心できないらしいから帰って反省しろ、帰れ!」と呆気なく開放されたらしい。「それにしても殴打の傷は全然ないんだよ」と父。一安心と会話しているところへ「三島さんいるか」、朝の声と同じ声だ。今度もまた、と全員に戦慄が走る。しかし朝とは雰囲気が全然相違するどころか、かえって友好の兆しが見える。3人とも酒の小瓶をぶら下げて、開口一番「今日はすまなかった!立場上あれしかなかったんだよ。お前は善人だよ」。一時間くらいお互いにさしつさされつ和気あいあいの雰囲気であった。最後に「何か困ったら知らせてくれ。」と名刺を差し出す。それには船橋署教務部長とあった。それが縁?となり、良くも悪くも奇妙な交際が始まった。
奇妙な交際、今度は毛色の違ったあの付近に居住したロスケ将校、ポールが紹介した。何か意味不明のソ連語でペラペラ、多分自己紹介だったのが、名だけは感で判明した、コーリーヤー。それにカピターン(敬称で上の意味もある)陸軍少尉、赤ら顔、年齢は28才、典型的なスラブ民族の顔だ。暇つぶしか毎晩のように来る。多分彼のお陰だろう、略奪など変な事件はゼロ。体の良い用心棒兼魔よけと言っても過言ではなかった。片言の会話でも結構楽しめる。血も涙もあるコーリーヤーだ。時には戦争の悲惨さを涙ながらに説明する。「ニメツキー(ドイツ、当時は悪魔の代名詞)は強かった、私の部隊は100人の部隊だったが」と写真を見せる。そうして「これも戦死、この戦友もポコ(弾丸が当たる)。生き残りは4人だけ」。本当の最前線の兵士だったのだ。ドイツとの戦いはどんな戦場だったのだ?「空から低空で猛烈な音響を出しながら釘のような爆弾を雨のように投下する。我々は戦車の陰にピッタリと身を張り付ける。一つでも当たればウオーメル(戦死)。この頬の傷はそのときの傷だ。危なかった」。そして吠えるように泣く。真実の声!それが時折り豹変するらしい。他の日本人家屋を襲うのだ。彼白状する、頼みもしないのに!「チビヤ ヤブトイマッチ ホイニヤー!」と父。この馬鹿野郎、コンチキショウとは日本流だが、ロシア式でそれに近い表現では「コノヤロウ コノ キンタマヤロウ」と表現した方がより日本式に近い。彼はそれを聞いてうなだれる。主客転倒だ。敗者の日本人から、勝者のしかもれっきとした小隊長殿に対しての発言だ。そして彼は何か言い訳風「ニエ ニエ(否定)」の連続だった。当時父は48才、彼は28才、彼から見れば長兄もしくは義父に写っていたのかもしれない。要するにお互い人情が存在していたのだ。それも僅かな期間に。風邪を引くと山のような薬と大きなロシアパン持参で見舞いに来る。他の家では「マダムダワイ(女を出せ)」を相当やったはずだが!栄光の大祖国戦争勲章が声を立てて泣いている。彼らにとっては正義の戦争のはずだから!その勲章であるが全員ぶら下げている。少なくとも10個はあった。もっとも生き残りの兵士達だったのだから当然かもしれないが!

コーリーヤー、カピターンが着用していた勲章
ソ連は、曲がりなりにも一応は法治国家なので北朝鮮に侵攻する直前に、占領方針の指令を発していたのだ。これはスターリンの指令だ。
2. 反日的な民主主義政党、組織の連合によるブルジョア民主主義政権の樹立。
3. 反日的な民主主義政党結成を支援。
4. 地元住民にソビエト化を押し付けない。私有、公的財産がソ連軍の保護下に置かれる。
5. 企業活動を保証、秩序の維持。
6. 軍は規律を守り住民の感情を害しない。
7. 民間行政は沿海州軍管区軍事評議会が遂行する。
以上がソ連軍の布告文であり立派なものだが、果たして実情は?大一番に「マダム ダワイ」。これは主として日本人に対してのみ限ったことではサラサラない!朝鮮人に対してもあった。あるとき平壌の繁華街で朝鮮人の結婚式。親族一同で車?馬車かもしれない、待ち合わせる途中、悪運にもソ連兵のジープがその眼前にピタリと停止。中からワラワラと兵士が飛び出して「マダムダワイ」、新婦を全員で車中に担ぎ込み、呆気に取られている親族達人々を尻目に「ダスビダニヤ(さようなら)!」。こんな事件はチョイチョイ存在していたのだ。
コーリ―ヤー、カピターンのお陰で付近駐在のソ連兵と顔なじみになり、色々な兵士達と顔知りになった。隣人の朝鮮人、「困ったことがあったら助けてあげるから」と再三好意を持ってのお話だったが、最近それが微妙に変化してきたみたい。そこのおかみさん、「貴方の家によくノスケ(発音の関係から朝鮮人はこのような発音が多い)が来るが何かあるのか」。実はこれこれしかじかと説明する。彼女、驚いたような仕草をしながら「ウリチビ ワッソ(私の家に来たら)困るから、この事をノスケに話して下さい」。敗戦前、よく愛唱された隣組の歌詞に、助けられたり助けたり、の文句があったが、今回の件は広義の意味で3カ国の人間が関わっている。これが本当の 助けられたり助けたりの本質になったのだ!
グレッサー23才、士官学校卒バリバリのエリートで未知の国日本の文学に対して非常な興味を持っている。ペーチヤー38才、応召兵で元銀行員らしく穏便、紳士的な兵士、最後に彼の妻を見せられた。金髪美人、一見愛があるような感じだ。まだまだ知人になった兵士がいたが、いかんせん、今は敗戦国民と勝者でしかも兵士だ。立場が大差する。これが平和時ならば素晴らしい人々と知り合いになっていたのに。
この頃になると微かに残影が残っていた日本色の現象も完全に払拭、見た目にも北朝鮮臨時人民政府が形造られてきた。ある日の午後、恐々お付き合いをしていた人民治安員が3人で来宅。何か陰で父と会話していたが、しばらくして父が言うのには「少しあの人々にも協力しなくては。4~5日留守をするから」と言い残し、彼らと自宅を出た。出るとき治安員の人々は「心配しないでください。無理な拘引ではないですから。ただ協力してもらうだけですから」と。そう言われてみたものの、やはり一抹の不安は拭い去ることは出来なかった。それというのも約4年前、平壌の無線局長の現職であり、しかもその局は平壌飛行場の一角に存在していたため、本来一般無線業務だけであるはずなのに、戦局が熾烈になるにつれ軍から依頼を受けたことがあった。それは軍飛行機搭乗員に対しての無線教授であった。ただし軍内部を自由に闊歩するので身分は少佐扱いだった。そして訓練、実践は朝鮮北部の対ゲリラ作戦無線交信の指導。全く兵の通信は滅茶苦茶で、「あれではそれを傍受する方でも大変だ」と父は良く話をしていた。戦闘力はあったらしいが、通信能力に欠けていたらしい。我々は何も知らない。一般国民は知らなかったのだ。その後転勤で今でも現存する韓国ソウル付近にある金浦飛行場勤務になった。この飛行場はかつて日本軍が建設したもので、父はこの件についてあまり口外しなかったが、当時でも内部は地下3階であったらしい。そこでも搭乗員訓練のため、今度はそこから福岡の雁の巣飛行場まで玄海灘を越え、何回かの訓練があったらしい。その時の軍用機は一時名をはせた陸軍重爆撃機、呑龍(ドンリュウ)であった。3機編成で常時一番機に搭乗であったが、何回目かに何らかの都合で二番機に搭乗。ところが人間、運不運はどこに発生するか神のみぞ知る。その時一番機はエンジン不調のためあえなく玄海灘に海没。表面では一応名誉の戦死発表だったらしいが!父はこの後退職したが、この件もその原因だったらしい。現実の冷酷さをまざまざと見せつけられたからだろう。それに平壌から京城(ソウル)へ単身赴任。それでも週一回は帰宅していたが、食糧配給すら悲惨な時代ではこんな生活いつまでも継続不可。軍からの特別の配慮でもあれば話は別なのだが、それもない。あれやこれやで退職したらしい。退職後は無線とは無縁の会社に就職したのが結果的にこれまた大難を逃れた要素の一つにもなっていたのだ。それは昭和19年3月だったと記憶している。運が悪ければ、あの一号機に搭乗しあえなく海没、勲章の一つくらい貰っていたかもしれないが、敗戦となった後ではそんな勲章も何の意味も持たなかったであろう。話を戻すと、父が治安員と家を出たことは、付近の人々も多分知らなかったはずだ。彼らだって混乱時期なので、深いかかわりまで知るはずもなかった。しかし我が家では不安と希望とが交差した毎日だった。一縷の光としては、彼らの悪感情がゼロに近いということだった。そうして悶々とした日々の最終日、約束どおり父は帰宅した。父曰く「相当協力したはずだ」。それで彼らの間の会議の結果、「実に我が国に対して良く協力してくれた」と感謝の意を述べられたのは良いが、最後に「どうか後4年残留してくれないか。家屋そして食糧は特別待遇でもって帰国まで準備できる!」と。父は「それは結構なことだが家族と相談するので」とのことで帰宅したのだ。4年辛抱すれば大丈夫、日本には特別船で帰国が出来るのだ。父も半信半疑。ところが家族が猛反対。「私たちは日本人なんですよ。あんたそれは本心ですか」。今まで見たことがない母の怒り声。なんぼ敗戦になっても日本に帰り、例え貧乏しても同じ日本人同士。これが二晩継続した。結局本心は皆同じ、残留しなくて良かった。あれから朝鮮戦争、生死不明に全員なってるかもしれなかった。ハラハラどころの話しではなかったのだ。話はこれだけではない。本当に驚愕する事件の連続だったのだ。父は彼らに無線探知機で当時南朝鮮から侵入した工作員の逮捕に協力させられたのだ。「それはそれは、あれは地獄だったよ。逮捕された人々の運命は・・・」。その父も30年前この世を去った。
時折り隣組を通じて2日くらいのソ連軍使役の通達があった。隣組は敗戦までは配給や軍の協力に絶対的な存在であったが、一たん敗戦になってもその機能の価値は勝者のソ連軍にとっても便利で利用価値の十分にあるシステムだったに違いない。それを通じての通達で、曰く「元日本兵と警察関係者、そして裁判関係者の申告義務。これは10年経っても時効にはならず。申告を怠れば隣組長も同等と認める」。文面はすごく平穏だったが、これはあのシベリア送りの前段階の過程だったのだ。あっちでもこっちでも出頭。そして何処ともなく連行されたらしい。それにかつては非情な金融業もこのメンバーに編入された。だから人一倍利口な人々は、その感を察し素早く逃亡したらしい。幸か不幸か我々の隣組にはこのような事態は発生しなかった。それに一番該当すると思われる父も前述した条件を満たしていたはずだが、何の弊害も発生しなかった。それにしても北治安当局、この非情なまでの通達は敗戦後2~3ヶ月してからのことで、いわゆる寝耳に水の感であった。あの古河知事が共同で発した布告文は反故にされたのだ。種々協議の結果、使役の2~3日がどのような作業か不明だが、仕方ない。これ以上悪感情を持たれるよりは、ということで、まだ厳寒になっていない節ということもあって、出来うる限り労働力のある人々だけが参加した。
初めて乗せられるソ連軍の大型ジープ、その速度の迅速なこと。実際、敗戦前後を問わずこの様な車に乗車したのは絶無に近かった。到着したのはすぐ近くの元日本軍飛行場、作業はそこの後片付けである。約100人もいただろうか、鉄くず、板切れをモッコでの運搬。監督のソ連軍人は肩に自動小銃を構えているが、あまり厳しい感じではない。そうして遅いソ連給与の昼飯(ソ連の昼飯は午後2時)。共同労働に参加したソ連軍人と共に肉入りスープと黒パンの食事。程度は良かった。そしてほっと一息ついたところ、一番若い私のグループに何人か集まり私に問う。「君は元学生か?」、そうだ。遥か彼方に山積みされている元日本軍の爆弾を指差し、「あれだけ武器があったのに、なぜ戦わなかったのだ?ソ連では家族全員戦闘に参加した」、彼ら続けて言う「満州の戦闘で日本軍は三菱、住友の武器を使ったが、あちらでポコ、こちらでポコ、あれでは負ける。君もなぜ戦わなかったのか?」。そうして肩を叩く。主客転倒とはこのことか!いや、日本人は天皇陛下の命令により戦闘を中止したのだ。「何?天皇陛下の命令で、信じられん。ソ連ではあのニコライ皇帝を倒し、正義の軍だから一般民も真っ先に参加したのだよ」。言葉というものは、その時の雰囲気、そして身振り手振りで理解できるものだ。「オッタコイ オッタコイ(こういう風に)」。これは、戦った彼は死んだ、と号泣を交えながらの説明である。彼らの目から見た私はひょっとすると、将来今までの思想を豹変して良きソ連共産同盟の一員として期待できる、と思っているような気配がしてならなかった。それに倍加するように何人か肩を叩いたり握手をしてくれる。ましてや悪感情がゼロに等しい。そうして彼らは紙上に世界地図を描き「日本は朝鮮、樺太、満州、台湾を奪取し、その上中国、南方まで取りかかったので、我々正義の軍がその野望を粉砕したのだ」と。言わせておけば何と言うことだ。頭全部が軍国少年の私には耐えられなかった。何を言う、貴方の同盟であるアメリカは独立当時13州、それがメキシコからあのカルフォルニア州を取りハワイ王国を併呑し、今では48州、貴方の国ソ連では18世紀まではモスクワ周辺だったのが19世紀ピーヨトル大帝の時代にアジアの極東まで進出したのではないか!彼らは怒りだした、が、休憩時間も終了。また後でと、それぞれの演説もチョンとなった。今思い出すと、よくもあれだけの反撃を発したものだ、そして問題にならなかったものだと胸をなでおろした一瞬であった。
11月になると恐れていた冬が間近になってくる。生活は売り食い。町のいたるところに満州からの難民婦人の姿が見受けられる。在来日本人と満州難民の区別として、女性が髪を三つ編みにしそれを頭部に丸く巻きつけている。我々もろくなものを食っていないのに彼女達はほとんど子連れで、どうやって日々を過ごしているのやら。冷酷にも北朝鮮人民委員会は日本人に対し商売禁止の布告を出しているのだ。売り物も売り尽くし、食糧の配給はゼロ!おかげで私たちと同居している満州難民の関本さん一家を始め、皆言うに言われぬ生活をしているのだ。色々な困窮者が同居していたが、いかんせん長年月を経過しているのでそのほとんどは忘却の彼方に消え去ってしまった。あの当時は悲惨な一家全滅を相当数記憶していたので、何らかの形で、せめて氏名だけでも帰国後知らせたいと思惑はあったのだったが!ただ関本さんの場合についてだけは記憶が鮮明なのである。当時私は18才、私の家族であった父母、15才だった妹の3人はもうこの世にはいない。私より6才下の弟は当時12才、未だ子供だったので、この実情の証言者は私一人のみになってしまった。現在70才以下の人々は、失礼な言い方かもしれないが、惜しむらくは当時はまだ成人付近の年齢に達していなかったので、いわゆる子供の目で見た敗戦の現実しか記憶に残留していないような気がするが・・・関本さんは当時32才、新潟県出身、満州奉天からの避難者で夫は召集兵として職場に、子供は3人、長女は靖子だったと記憶6~7才、次女は5才、名は忘却、最後は男子で3才、名は鋼だったはずだ。長女はいつも青白い顔をして、「母ちゃん母ちゃん」とすがっていた。7才の小児にはこれが精一杯の生き様だったのだろう。平和時ならば皆に祝福を受けピカピカの一年生になったはずだ。何を食っていたのだろう!嗚呼、それでも、その時点までは小康だったのだ。たとえガスモノばかり食っていても・・・発疹チブス、これを聞いただけでも身震いする。当時、特効薬など存在するはずがない。ましてや敗戦国民には、それが蔓延して6~7才以下の小児はほとんど全滅。一冬に平壌だけで、その犠牲者は4000人ともその倍であるとも言われているが、定かではない。それに加え、成人も多数その犠牲になってしまったのだ。その恐れていた病魔が最初に長女に感染、3日くらいであっという間に死亡、泣き叫ぶ関本さん。前記したように珍しいことではない。誰も訪問する人もない。どうにか見つけた僅かばかりの線香がせめてものはなむけなのだ。葬式なんかない。死亡が確定されれば翌日には日本人会の人が丸太もどきに藁包み。ガラガラと雪道を死体置き場に直行する。それで全部終了。そういうことが連日で、珍しいことではない状態であり、悲惨とか陰惨とかそういう表現でも感情的にはその何分の一にしか該当しない。言うならば表現の方法がないのだ。その直後別室ですすり泣く声がする。残念ながら氏名は忘却、日本の何処出身者だったか。その婦人は多分小児が2人いた様子だったが、聞くところによれば、最後には部屋数の関係から日本人主体の収容所に収容された。私も何の用事だったか思い出せないが、とにかくそこへ再三行った記憶がある。それは元々何かの倉庫跡で、レンガ造り、がらんとしており広さは100坪くらいで高天井。そこに各家族毎に周囲を荒ムシロで取り囲んだだけ。零下20度の極寒だというのに暖房のダの字も皆無である。それに栄養失調が加速して、普通ならばなんでもない病気でもすぐに蔓延するのだ。それがため日本人会ではこの窮状を何とかと、北朝鮮人民委員会、そしてソ連司令部に根気よく懇願したのだ。平壌ではこれと同一の窮状が何ヶ所もあったのだ。その結果、一回だけはその効果が表れ、ソ連軍の女医を先頭に現場に乗り込んできた。全員頭部から、今では悪名になってしまったあの昔懐かしいDDTを嫌というほど振りかける。バラバラと両手にはあっという間に蚤虱の死骸の大群。それに最大のプレゼント、子供には一日三合、大人には一日五合、白米の給付である。それには如何にもソ連らしく但し書きの条件がつきである。曰く、「この米を完全に使用せよ!万が一にも余剰米が出現すれば直ちにこの件を取り消す!」と。我々その他人々は、皆羨望の眼でその様子を見たり聞いたりしたものだ。我々だって白米はなかなか拝めない状況だった。我が家から収容されたある一家は可哀相に全滅したらしい。故郷ではこの悲報が完全な形で知らされたかどうか!例の長女を失った関本さん、次女、そして3才の鋼君も同じこと。子供3人とも全滅である。関本さん泣きじゃくり。「私は夫に会わす顔がない。実は私は後妻だった。実子は最後の鋼だけだったが私は実子と同一に他の子も育てた、本当に!私の心に隙があったからこんな事になってしまった。ゴメンヨ ゴメンヨ」と地面に顔を擦り付けながら両手で地面を激しく叩く。あのときは若かったが、現存すれば90才になっているはずだ。生きているものやら、この世にはもういないのやら、一切が今もって不明である。多分命からがら帰国を果たしたと思うが、一生心の傷痕は消え去らなかったはずだ。また例え一人でも生存して帰国できたのならば不幸中の幸いとしか言いようがない。ある資料によれば富坪で1486名、咸興で2148名、鎮南浦では1600名、雄基202名、羅津119名、清津500名、城津281名、新義州259名、龍岩浦387名、定州528名、38度付近で200名、そうして平壌では6000名の犠牲者となっている。想像するに、実勢はこの数字は少なくても4割は不足している感じである。これらの犠牲者は無謀な大陸政策と軍国主義の大失敗により罪もない一般庶民であるのだ。また他国人も白から黒への大変化であったので、これらの人々の中にも多大な犠牲者が出現したはずだ。全部は不可としても、せめて日本人の墓地くらいは公の主催でその霊を慰めて差し上げたい。
親友の全君は来訪の足がやや遠のくが、1週間に1回くらい隠れ隠れ会いに来る。彼にも学校が再開されているという事情があるためだ。いつもの会話しかない。また来ると早々に帰宅につく。
いよいよ生活に困窮してきた。朝鮮人相手の商売は禁止されている。それは出来ない相談だ。私は体力的には重労働があまり得意ではない。丁度その折り、ロスケ相手の商売、そして軽労働ならばというわけで恐る恐るロスケの官舎巡りを思い立った。あそこまでは相当距離があるが、そんなこと苦にしない。そこは昔の軍用道路を直線に行き着いた所だ。道すがら元軍用道路両岸にうち捨てられている元日本軍航空機の残骸が相当数、そのままうち並べられている。飛行機の内部に入るのは初めての経験だったが、どうも先客があったらしい。私が侵入したのは戦闘機、爆撃機。ならば大きいし、早速内部に入る。パラシュートがあった。その瞬間私はど胸を突かれた。これは最近まで日本の産業戦士が国のため勝つまではと一心に作成された作品だった。悔しい、残念の想いが胸中に去来する。朝鮮生まれの私だが、敗北しても日本の血潮が流れているし、腐っても鯛と空威張りもないわけではない。いかんせん鼻の下が極端に滞っている、子供のときから珍品に興味があって色々な品を楽しんでいたが、今回は従来の品々とは全然相違するのだ。日本人の血が通ってはいるが、眼前にしかも無償で頂けるとあって、人間本来の本能が出る。濃い緑色、これはパラシュートの止め金、それに飛行用の腕時計数個。最後は燃料タンクに幾重にも覆ってある生ゴムを剥ぎ取る。これらの品々は現在では全部珍品。ことにパラシュートはその道の業者でもなかなか入手が難しいとか。飛行帽子はそのまま使用できる。という事でロスケ行きは中止。珍品の土産を自慢気に帰宅したのはよいが、開口一番「何だ、こんなもの。私は期待していたのに。」と母の言葉にがっかり。もっともろくでもない食い物しかなかったから返答しようにも出来ない。
12月に入ると降雪はあまり感じなかったが寒気が厳しくなってきた。よし今日は、と意気込んでロスケ宿舎に到着。ところがその道の先輩が何人かウロウロ。覚えたてのロシア語で一軒一軒大声で「ラボータニエット(仕事ありませんか)」。すると最後の家で扉が開く。中から年齢25才くらいのマダムが出てきてイエスイエスと手招きする。行くと早口のロシア語で指差す。彼方を見れば旧日本機のプロペラの山である。彼女「ターポル」と叫び持参してきたのは蒔き割りに使用するマサカリである。ただ日本式と相違するのは切れ刃が鋭い。言ってみれば童話に出てくるあの金太郎のマサカリである。これには苦労した。通行中のソ連兵士、見かねたのか手伝ってくれる。なるほど要領が良い。立ち去る。やっとプロペラ割りも手に付いてきたが何と言っても固い。多分樫の木だったかもしれない。少し空腹を覚えてきた。もう昼時だが弁当なんてそんな贅沢品は持って来られない。自宅には食糧がないのだ。ややしばらくして扉が開く。素敵な香水の匂い。「ストシエ イジスーダ(あんたこちらに来い)」。部屋に入る。テーブルを指差し「ダワイクウシエ(早く食え)」。驚いた。こんな立派な食事、敗戦以前の何年か前から食ったことがない。スープ、丼の中身は馬鈴薯と牛肉がゴタゴタ大量に入っている。すばらしい、ロシア特有の黒パン。いや、何と言っても素晴らしいの一言に尽きる。ガツガツ食ってはいるが父母の顔、兄弟の顔が浮かび、私だけがとすまない気持ちが噴き出るが、今の場合何ともならない。こんな立派な食事を出してもらえるだけ幸せなのだと。ハラショ スパシボ(大変ありがとう)ロシア語は覚えたてで詳しく御礼の言葉をしようにも不可である。固かったプロペラも何とか2~3日のペーチカ用には間に合う分量だ。もしもこの家屋が従来の日本式のままならば室内の暖気が漏れてしまうのだが、ロシア式に改造してあるので殆ど何の心配も無用である。彼らは日本家屋接収と同時に、先ず玄関の引き戸をドアにする。そうしてドアの両面とその接触部分を何枚もの布で厳重に張り付ける。次に窓(日本時代でも全二重窓)、窓半分にはモミガラを入れ、その上部には布で完全密閉。その他壁に少しの隙間があれば、それはもう神経質に一点一点入念に点検する。だから厳冬といえども室内は簡単な服装で過ごせる。これは厳寒地においての生活の知恵の一つだろう。相当な労働だったが若い力でこれをこなしたのだ。マダム、自分で名はレナーと言いつつ大きなロシアの新聞紙に何やら巻いて私に「ストシエナー」と差し出す。そうして有難いことに「明日も明後日も来い」と言う。中の品はなんと牛の肩モモらしい。片言ではあるが御礼を言って帰宅の戸についた。
ただいま、家族の驚く顔。大きな牛の肉、それにロシアパンが2個、丁度現在のパンを一回り大きくしたもので甘味はないが食用にはもってこいで日本のパンのように飽きが来ない。母が言う「他の人々も喜ばせて」。約三分の一の分量をお裾分けとして差し上げた。同棟にいた3家族の人々は驚きと感謝の言葉、と同時に「嗚呼!これで生きのびることができる」と歓喜の言葉である。我が家でもいつ食べたか記憶にないご馳走をそれこそむしゃぶりついた。最初は口に入れるのが精一杯で会話がなかったが、空腹を満たすにつれ徐々に会話の余裕が出てきた。「お前、今日は本当に殊勲甲(最高の勲章)だ」と父は言う。「それにしても良い人にぶつかったな」と珍しく私を持ち上げたが、今にして振り返ると大同小異はあるにせよ、かつての敵国民である我々に対して、ことにソ連夫人は温情があったみたい。彼らだって我々もしくは我々以上に困難を極めたことが当然あったに違いない。勝利者としての高ぶった様子があまり見られなかった。ソ連人の印象として、個人的には本当に人間味がある人が多かったが、これが集団になると豹変する場合が多々あった。簡単な言葉で凝縮すると田舎者の嘘つき、と表現するのが日本側の妥当な感覚だが、その嘘つきにも相違がある。日本人同士では、あの野郎嘘つき、と言うが、彼らの嘘は相手を喜ばせるための嘘が中身の大半を占めているみたい。あながち一概には言われない事例がある。最近でもロシア船員、貴方の家はどこか、船籍がウラジオストックならば全員がウラジオストックと答える。しかし、貴方はどこでお暮らしですか、と聞くと自分の住所を知らせてくれる。国民性習慣の相違なのだ。
それにしても最高待遇してくれたレナーに何かお返しを、と思いひょいと気がついたのは、そこらへんにうち捨てられているあの雛人形。これを拾って、翌朝3体を彼女にプレゼントした。ところが想像もしない事態が発生した。何か大声を出し、付近のマダム達に知らせる。彼女達がワラワラと駆けつける。彼女達の目に写ったのは珍品中の珍品だったらしい。彼女、何事か電話をする。主人が軍務をさいて足早に帰宅する。主人は分かりやすいソ連語で「人形をゲネラル(元師)が是非買いたいと言っている」。元師!今度は私が驚愕した。私の人形が雲の上の人に直通したのだ。帰宅して、今度の仕事は私の手に負えないと父に相談する。今回は本当の上客の可能性があるので、なるべく立派な雛人形を、と各所を駆け巡る。あった。そこの家では、「引き揚げで全部無くなってしまうのは承知しているがこの人形には思い出が詰まっている、しかしこの様な有様では投げるよりは」と少し高価だが大枚300円を支払って譲り受けた。なるほど立派なものだ。今までに見たことがない逸品であった。翌朝、風呂敷2枚に振り分け、背負って歩行、丁度朝鮮の保安所(警察の交番)の前を通行中、そこから出てきた所員「おい日本人、何を持っているのだ!見せろ」、ハイ、所内で広げさせられる。「なんだ、人形か」、ハイ、「早く行け」。ここまでは良かったが、それから30分、延々とお説教。「36年我が国を侵略した。大体お前達は民主主義を知らないのだ」、ハイ。なんぼお説教を聞かされても、頭の中は人形商売しかなかった。この難を避けるには御無理御もっともの、ハイ、しか手はなかったのだ。やっと放免、ヤレヤレだった。目指すレナー宅に行くと待ちかねたようにレナー夫殿が先導して行く。近づくことも出来なかった総司令部である。そうして奥へ奥へと行き着いた場所は立派な大広間。かつて日本軍幹部の集合した夢の跡である。ややしばらくしてキラ星の将軍が入ってきた。立派な体格で一見しただけで偉い軍人だ。レナー夫、平身低頭して緊張している。これらの偉い人は多分大将格のようだ。これでは身分違いというものだ。最後に入室してきたのがゲネラルらしい。私の胸中は、これは商売どころではなく有無をいわさず投獄されるかもしれない、本当にハラハラドキドキの一瞬であった!テーブルのそばを指差し「ザジエチ(座れ)」。すると真正面に元師着席。人形を陳列せよ、と言う。陳列すると感歎の声が上がる。次には説明。立派なものは分かるようだが中身が分からない。その時の説明は、自分から見ても分かりやすい名通訳だったと、今でも自慢の種だ。最上部の人形を指差し「これは何だ」、内裏様のことだ。これはミカド(天皇をミカドと称した)、隣はミカドマダム。彼らにとって見れば、想像したこともなかったに違いない。今まで聞いたことがないロシア特有の叫び声を上げる。そして下は、これはサムライゲネラルだ。目前の本物、同意を得たとばかり大きく頷く。後は簡単だった。その下はマイヨール(左官)、そうして次はカーピターン(尉官)、最後はソルダート(兵隊)、そうしてロシア風に小指をフウと野卑を込めて吹きつける。その途端、緊張の張りが解けたのだろう、全員してゲラゲラ笑うこと。しめた!商売は成功だと予感する。ゲネラル、やおら紙片を差し出し、「いくらか?」。威厳に負けてはならない。例え敗戦国民でも、と胸中叫びながら、5000イエン(円)。取引の攻防である。元師「2000イエン」、ニエット(駄目だ)、結局300円が何と3800円に落着した。売り手はもちろん大勝だったが、ゲネラルの喜んでいる様子。その証拠にモスクワ、サマリョウト(飛行機)の会話が断片的に聞こえる。最後は元師と握手。その時、もし会話が自由にできたなら、このまたとない機会を捕えて、日本人の窮状を一言でもよいから訴えたかったが、それは叶わなかったのが心残りだった。それにしても敗戦国民でしかも未成年が、よくも雲の上の元師と取引できたものだ。恐らく日ソ経済交渉妥結の本当の走りではなかっただろうか。日本経済再建の初期は、形、国もそれぞれあるが、このようなギリギリの瀬戸際外交であっただろうし、現在でも大同小異あれ延々として、このような事実が継続しているはずだ。この事項はいわゆるロマンと冒険に満ちた話だが、これは一般条件からして点数をつければ最上部の点をつけるのが妥当であると思う。
たいした仕事ではなかったが、ソ連軍人の官舎巡りのおかげで何とかかんとか食糧の調達が出来たのだったが、時折り仕事にあぶれる日々が続く時があった。何軒巡っても声がかからない。しかし酷寒の節になっていなかったのがせめてもの救いだった。ある日の午後、一軒の家で何やら大声がする。何事かと思い、陰から盗み目で内部を見ると、例によって酒好きのソ連軍人7~8名で酒飲みの最中である。多分、戦勝祝いを兼ねてのことだろう。そこまでは良かったのだが肝心のテーブルに目を向けると、ありえない風景が展開していた。テーブルに掛けていた品物は何と日本女性が使用するあの赤色の腰巻、そうして器用にも?その腰巻紐をテーブルの足に縛り付けている。それにこれまたオマケがついている。酒を入れているあの容器なのだ。現在では形態も相違していると思うが、あのガラスで作ってある尿瓶である。それに便利なことに?目盛りまで完備している!習慣の相違で彼は全然知らないのだ。知らぬが仏とは正にこのような事だ。彼らは楽しんで、さぞ楽しかったに違いない!大同小異、多分日本兵も似た者ゴンベイだっただろう!(尿瓶とは体の自由のきかない人がベッドで寝たまま小便を取る瓶)
習慣の相違はまだまだある。当時我が家ではペットとして犬と猫を飼っていたが、もはやそれどころでは無くなってきて、やむなくそれぞれ最善の方法をと考え、ソ連婦人に申し込むと愛猫は簡単に了承してくれた。本当にあの愛猫は幸せになったのだ。彼らは日本家屋に残置してあった仏壇、もちろんキンピカ、を肝心のパン入れに使用していたのだ。その扉は完全で簡単に開閉でき、なおかつ外部から透けて見える。仏壇が彼らの趣味にあったのだ!その仏壇のそばにデンと居座るのは愛猫であった。肉、魚など贅沢三昧に食い放題。幸せはどこにあるか分からないものだ!それに引き換え愛犬のポチの運命は?これには困った。「ニナーダ(要らない)」。ところが付近の朝鮮人が「私にください」との申し出。愛犬は小型ながら赤犬なのだ。食用にもってこいの犬なのだ。涙を飲み引き渡す。首に荒縄を巻きつけられ、観念したのだろう、首を下げ下げ、我々家族に対し言いようのない顔を何回も振り向きつつ、姿を消した。あれから何十年経過しても、可哀相なことをしたと今でも思い出す。敗者と勝利者はかくもペットにまでも影響するのだ。
例のコーリーヤー、いつの間にか姿を消した。あれほど親密な関係にあったのに、と不思議に思い、彼の同僚に尋ねたところ、皆一斉に両手の指を格子に作り「これだよ」とロシア風に知らせる。何!この格子は牢獄の意味だ。好人物のようだったが、父が言っていたように他へ行って乱暴狼藉をやったのが仇となり、その結果が出てしまったのだ。それより惨い事件を起こした連中も多々いて、見せしめのため大衆の眼前で7人くらい公開銃殺で処刑されたらしい。不明になった時期はそろそろ春の気配が出てきた6月だったと思う。彼に対しては思い出が沢山あるが、そのほんの1ヶ月前、時折り引き揚げの噂で持ちきりであり、またドイツ降伏日の5月初旬、お祝いだから、と招待されたことがあった。酒宴たけなわの夜、表が騒ぐ。コーリーヤー、銃卒のポールに顎をしゃくり、見て来い。命令である。ポール、自動小銃片手に表に出る。すると朝鮮人の大衆は叫ぶ。「日本兵が逃亡した。逃亡者は天皇陛下の命令により銃殺に処す。出せ。」と騒ぐ。ポール、やにわに夜空に向けて実弾発射、「帰れ」と今度は命中しないようまたまた発射。それがため恐れた群衆は退散した。その直後裏の茂みでゴソゴソ。見れば何人かの日本兵だ。両手を合わせる。コーリーヤーまたしても顎をしゃくり「早く行け」と手を振る。姿を消した。日本人にない度量だった。これらが忘れがたく昭和30年ごろ、モスクワ放送局にコーリーヤーの件を尋ねたが、回答ではロシアにはコーリーヤーの名は無数にあるので調べようがないとのことだった。あれから60年近く経過した。生きてるのか死んでいるのか?

指を格子に作って牢獄のサイン
時折、北朝鮮保安局より隣組経由で労働者の要請があった。これは半ば強制的な要請に準ずる。もちろん無償ではない。労働者の人員不足が主たる原因だったようだ。元大工職は新政府樹立のための建造物の建設、技術のないものは一般労働で、私も多彩な労働に従事した。例えば屋根瓦の修理、壁塗りに使用するこての下ごしらえ、筏の運搬、砂利の選別などであったが、一番困惑したのはソ連兵になる、という要請。これに従えば即刻国籍変更、ロシア人になるのだ。この件は多分同意のもとで、今では完全ロシア化しているはずだ。もう一つ、オホーツク海の漁船員募集の件、時期は1年。一時金として米一俵などあったが、私は引き揚げも間近なので拒絶した。米一俵は非常に魅力を感じ、これによって私を除いて皆生き延びることができると。ソ連側では元日本兵は逃亡の危険があるが、元々朝鮮在住者はその危険が僅少だと認識していたらしい。これに応募したのは朝鮮各地から約2000名、1年後無事朝鮮に帰り、日本への引き揚げも果たしたらしいが、待遇が案外良好だったので、もう1年と残留したのが悪かった。あの冷戦に巻き込まれ、帰るに帰られずズルズルとそのまま。現在の現地での生存者は1~2名しか確認されていないとの事である。
運命の扉、この扉を一つ開け間違えれば全ての運命の歯車が狂ってくる。あのときソ連応募の北洋漁業に応募していたら多分死んでいただろう。これは若いソ連兵士の会話からも十分読み取ることができた。彼らは共産主義の軍隊だが、それ以前にロシア人なのだ。なんぼ教育しても、本来の民族と人間特有の本能が時によってチラチラ見え隠れする。そしてそれが前面に打ち出される場合もある。その顕著な例が欲望というものである。共産主義の軍隊だからすべからく平等だと、従前まで密やかに信じていたが、果たしてその実態は?ソ連軍兵士は階級によって給与品が大きく相違する。例えばタバコ、一般兵は粉タバコを器用に新聞紙でぐるりと巻いてプカプカ、少尉クラスになれば普通の紙巻タバコ、マイヨール(少佐)からは口付きで上等のタバコ、これ以上の閣下殿は簡単に接触できないので不明だが、多分この順序に間違いはないだろう。フレーブ(ロシア風パン)幅、高さ供大体15センチメートル、長さは30センチメートルはゆうに有ったような気がする。これも先ほどの順番で、普通は俗に言う黒パン、日本のパンと相違して甘味がないが常食としていくら食しても飽きない、マイヨール以上は白パン、まだまだ差別はあるらしいが我々が垣間見ることが出来るのはほんのわずかで他は不明である。
女子ソ連兵士、年齢は想像するに18~25才くらい、サボギー(女用の細長い皮長靴、布製品もあり)を履いてスカートを履かせるのは良いが、こと自動小銃を肩に掛けると恐ろしい。中には唸るような美人もいるが、男子と違いすぐに感情むき出しでバーと来る。これらの女兵士にも顔見知りができた。ターニヤー、トーニヤーなど。これらの美人兵士、ぶ女兵士、今では80才以上に老いぼれているはずだ。万事夢の如しとはこのことである。
これら兵士ではない他の一般の主婦はどうだったか。これは洋の東西を問わず井戸端会議で花が咲いていたように世間話をする。当時ある先生が「私は国賓扱いでロシアと東欧諸国を訪問したが、学校、医療はすべて無料、堕落した資本主義の本家アメリカとは違い、それぞれの国民は皆健康で明るい生活を送っている。まったく感心しましたよ」と。実情を知っている私が、それは大間違いだ、と言っても、「何だ、お前は何も知らないくせに」と逆反撃。労働の機関紙もまったくこれに引けを取らない論調であった。現在は廃刊になっているアメリカのリーダースダイジェスト、この本は当時世界で購読されていた有名な雑誌だが、この雑誌の意見では、「ソビエト連邦は、発明、発見において世界で一番だと言っている」と記載されてあったが、果たして実情は?そもそもロシア民族は主としてヨーロッパ民族が主体で、我々島国と遠いヨーロッパ民族と先祖からなんらかの血が繋がっているはずだ。したがってアメリカ移民として移住しても同一の肌色なので、我々有色人種と比べても抵抗感はなかったはずだ。だからしてアメリカ内部の詳細を親戚知人を通じて百も承知しているのは当然のことなのだ!ロシア人主婦の井戸端会議であるが、隣近所の噂、食料、生活品にまで及ぶ。「アメリカは素晴らしい、素敵な自家用車が何台もある。立派な住宅に住み、食料は配給ではなく自由に品定めして山のように購入しているのだ!」、大げさな身振り手振りを示す。正答なのは充分に分かるが、こういう話を聞いて、当時としてはわが身に詰まされる思い、敗戦国民の情けなさの感情で胸中が一杯であった。その直後である。「パルチャ(党員)が来た!」、全員あっという間に霧散した。共産党員、表面では尊敬されているかに垣間見えるが、親しい朝鮮人が小声でシミジミ、「嗚呼、これからどんな時代になるのやら、一番恐ろしいのは共産主義だ。まあ、私の真実の話を聞いてください」。彼の語るところによると、党員になるために日常生活から点数をつけられる。いわゆる推薦の形である。誰も彼も党員になるわけにはいかない。そうして学問も学問だが第一番に先行するのはもちろん思想のことだ。如何に共産主義思想の持ち主だか。これはなかなかにしての難問らしい。無事、党員になることができれば、今度は細胞作りである。いかに同調者でしかも確実な思想の持ち主の組織を拡大するか、これを努力しなくてはならない。それと並行して反革命者の密告である。なぜならばせっかく苦労して革命を達成したのに、もしもそれが万が一にも逆転の憂き目なると、こういう運命を彼ら自身が一番知っているからだ。だから常時反革命者の名簿を当局に提出しなければならない。もちろん待遇は一般人とは大差がある。ある党員が極端に密告の件数が僅少ならば尋問に付されることは当然のことである。一例を挙げれば、ソ連の場合、妻が党員で夫が反革命者と見なされれば、逮捕、射殺する権限まで妻にあるのだ。そんな理不尽な、こんな話は全然別世界のことである。あなおそろしや!これしか今のところ表現が見つからない!しかし、表面から観察するソ連兵は、情勢が収まるにつれ徐々にその治安は回復調になって来て、多少の変化も見られるようになってきた。
高待遇のレナー宅も毎日仕事があるはずがないが、それに味を占めてソ連軍人の各家庭を訪問する。数のうちには待遇の悪い家庭も無きにしもあらずだったが、大概はあのレナー程ではなかったにしろ、何とかかんとか日々の食料には事欠かなかった。それでひょいと頭中に浮かび出た、それは日本婦人が持っていたあの日本人独特の着物である。着物の件はについては朝鮮人にだいぶ売却していたが、値段のほうはあまりぱっとしない。これをソ連婦人に売却すれば?私は気が早い、即刻ということで着物2枚持参、気心が分かっているレナー宅に持っていったが、顔を見て心変わりした。一枚は緋の長襦袢、若くても仏心が出てそれをプレゼントした。彼女、満面の笑みを浮かべ、やにわに軍票の赤札を私に握らせる。そうして私には理解不十分なロシア語ペラペラ。何と「明日、たくさん」の意味だ。震える私の手には赤軍票がなんと500円。当時、日当60円の時代にである。それでは、というわけで付近から着物をかき集める。10枚はあっただろう。これはあの人形の再来に匹敵するのだ。翌日レナー宅に行き扉をノックする。彼女出てきたが、一見想像もできない容姿なのだ。例の長襦袢を着ているのは良いが、帯を締めず片手でそれを押さえ、長袖の両端はそれぞれ縫い糸で止めてある。どこの国でも女心は平等なのだ。そのとき少年時代を脱却したばかりの私には眩しく反映した。現在の様ならば色の開化も早いだろうが、戦争、そして敗戦、食うや食わず、生命の保証もアヤフヤ。こんなこと想像するほうが無理だったのだ。「君、ジャズというものは、金に屈託がなく、立派な背広、満足する食事をしてから聞くものだよ・・・」。これは敗戦後何十年もして言われた言葉だ。当時は小学生から軍国を教育されているので、その片鱗も伺い知れなかった。しかし大人に近づくにつれ、できない相談でも欲望が自然に発生するのは無理からぬ話である。話を聞きつけてか怱かのうちにソ連婦人達の輪というか群れができた。そうして売値も聞かないうちに着物の奪い合い。一着500円だと私が叫ぶ。一番の人気の着物はあの色鮮やかな緋の長襦袢。皆で引っ張り合ってお互い譲ろうとしない。私も困惑したが、えい、面倒くさいから1000円、と言う。彼女達「さっきは500円と言ったじゃないか」と文句だらだら。ここで売らなくても良い、それでは帰る、と叫ぶと、わらわらと私の言い値通りでほとんど完売。売れ残りは2点ほど。それは着物でも地味な絽の着物であるがこれが駄目。彼女達は原色に近い色彩が良く、東洋的な色彩は全然人気がない。それにしても当時としては約7000円の利益、夢のような大金をせしめたのだ。このソ連婦人への着物売りは私が最初だったかもしれない。
白が黒への大変革が発生した頃は9月、北国のこととて黄色に変化したポプラ並木の木々の葉がバラバラと落下していた。敗戦の痛手、希望も何も喪失して、ただ虚ろな毎日の連続だったが、季節だけは、あの凄まじいばかりの厳寒も時折、節で待望して期待も間近のある日。市場は相変わらずの人込みでごった返している。ろくな買い物もできない。今となっては貧しい限りの日本人の群れ。朝鮮人、僅かではあるが中国人、それに色鮮やかと言ったら良いか原色に近い派手な服装のソ連婦人の群れ、これらの人々は戦勝国民などで赤い軍票の100円札を惜しげもなく、乱用に近い形で買い物に余念が無い。とそのとき、「ストシェイ(人を呼ぶ表現)」と叫ぶ声が耳に入る。振り返る、あ、しばらく以前に高待遇、そしてあの人形の件までも重ね重ねお世話になったあのソ連婦人レナーだ。夫も同伴している。にこにこしながら早口のロシア語でまくし立てる。表情から察すると悪い話ではなさそうだ。私もできうる限りのロシア語で、もう少しゆっくり話してくれ、と頼んだ。その結果、要約すれば、「もう少しで帰国するがザフトラ(明日)」と言っている。これは移動のための仕事を依頼しているのかもしれない。と言うことで早速、翌朝足早にレナー宅に駆けつけた。大げさな表情で「部屋に入れ」。驚いた。素晴らしいご馳走の群れ。そうして、「食べろ」と言う。仕事は?「フショウ ラボーター ニエット(仕事は全然ない)」。唖然としていると、もう一人日本婦人の来客である。この婦人、ロシア語が全然話せない。全部日本語でレナーに感謝感謝の御礼を述べている。方やレナー、ペラペラとロシア語。人間の感情は言葉ばかりではないのだ!豪華な食事の最中、婦人は嘆く「嗚呼、これが平和だったらなあ」と。数十年後、知人が「貴方はロシア人をどう思っているのか」、私は即答、彼らに対しては愛と憎しみが交差しているのだ、と。この回答には絶対誤りがないはずだ、と言い切ることができる。情けは人種が相違しても、引いては国際間でも、立派に通用し暫しの語り草にもなっているのだ。
自宅付近はソ連軍人の宿舎が点在していた関係からほとんど顔知りになっていたので、不祥事などはほとんど発生しなかった。しかしあるとき一人の兵士が付近の朝鮮人住居に押し入ったらしい。それをソ連憲兵が発見、2~3名で追跡する。この頃になるとある程度の軍律が確立していたのだろう、追われる兵士は大声で泣き喚きながら逃亡にかかる。顔面をちらりと見ると、泣いている顔面には涙の痕跡が全然無い。こういう状況は再三見かけたが、彼らには涙腺が無いのかもしれない?敗戦前、日本軍に追われて退却するときはこのようだったと本に記載されていた記憶があったが、最後には目前で逮捕のはめになった。このように迅速に略奪犯が逮捕されるならば我々日本人もある程度安心できたのだが!一説によるとソ連軍は日本軍との交戦により100万人の損害を覚悟して、第一線部隊は全て囚人部隊を持って攻撃してきたらしい。だから戦場において、また進駐直後においても、ことによっては殺人、強盗、強姦などは日常茶飯事に起こっていたのだ。だから後続部隊には、たとえ再発しても、その回数が減少したという点も頷けるような気がする。とにかく戦争は殺し合いで、ヤラナケレバヤラレルのが通常で、しかも罪の無い一般庶民、子供までも巻き添えになってしまう。ことに朝鮮北部で戦場化して命からがら避難してきた人々の悲惨極まる状況を涙ながらに再三聞いたことがある。政府の誤った軍国主義のため、国内はもちろん海外においても、かくも悲惨な事実が発生してしまった。だから政府高官、その指導者は、その責任を取らされても仕方ない。
この戦争の残虐について、かつて日本軍も行っていたのだ。これは敗戦前に朝鮮で海軍武官から直接そばで聞いたのだが、放火を得意とする兵隊も存在したらしい。例えば、ある部落を占領する、そしてそこから移動する場合それこそ得意の放火の連続である。それより悲惨なのは、容疑者らしき人物を発見、これは否応なしに罪もない子供を含めて井戸に吊るし、上から銃剣で刺し殺す。また食料調達に民家に押し込み、住民達にとって生活の糧として最重要であった豚を取り上げたあげく、若い主婦を惨殺した。その話をしていた武官が、嗚呼、と顔を覆っていた光景が今も頭に残置している。私の聞いた話はほんの一部分の話だと思う。だから戦争は絶対再発してはならないのだ!