昭和20年の夏は殊のほか暑く酷暑であった。8月9日、今までに見たことがない数十両の無蓋貨車に満州から老若男女が平壌に避難到着した。ソ連の宣戦布告の結果である。各日本人住宅に割り当てられた。ほとんどが軍関係の家族で一般避難民はさほどではなかった。難民の家族は立派な品々持参であったらしい。噂によれば最高幹部の家族達は従卒(お供の兵)まで引き連れてきたらしいとのことだった。3~4日した8月14日の真夜中、凄い豪雨。どうした弾みか床の間の天皇皇后の写真が鴨居から泥水と一緒に落下した。こんな事はじめての出来事で、当時日本人の家には必ず(御真影)と称し掲げていたのだ。家族全員で茫然と立ちすくんでいた。その時母は大きなため息と同時に「日本が負けたんだ!」。それは翌日忘れもしない8月15日、あの敗戦の日であった。正夢だったのだ。
学校に登校すると例の甲高い声で「学校は当分休校。また日本に帰るも良し!」。例の学友であり親友である朝鮮人の全君、「しまった!俺は日本を信用し日本人ばかりのこの学校に無理して入学した。それが駄目になった。どうしよう」と私の手を握り締める。他の日本人学生は無言のまま。全員頭が混乱しているのだ。言うに言われない一瞬であった。全員で騒ぐ「日本の連合艦隊はまだあるのに!」。実際のところ艦隊がほとんど全滅したのを知らなかったのだ。当時は報道機関の検閲が厳重で知らされていなかった。それでこういう言葉が飛び出したのだ。もっとも連日陸軍機が何百と飛び通っていたので無理もない話だ。そして早春、全君が満州に行ったおり、何百の日本精鋭機を見て「三島君、日本は大丈夫だ」と言った言葉もあったので、すっかり信用しきっていたのだった!しかし全面的な敗戦は信じられなかった。直接ラジオを聞いたことでもなかったので、十分に理解出来なかった。
そうして日本に帰るといっても日本のどこに帰れと言うのか。私は両親が早く朝鮮に来た関係から日本本土は全然知らないし行ったこともない。私のような生徒がほとんどのようだ。(敗戦時日本人は60万居住していたらしい<当時の朝鮮人の人口は3000万。50人に1人は日本人で主として都市部に集中していた)平壌は敗戦日に何事もなく平穏に迎えたのだが?しかし夜半平壌在住の陸軍師団長婦人の手により平壌神社は全焼した。平壌から朝鮮最北部の羅津等の地方都市までは800キロメートルあり、重大戦況なのにあまり悲壮感は感じられなかった。今に見ろ、日本軍精鋭機が敵を撃退、反撃に移りロシアのウラジオストック占領との朗報があるかもしれないと、現実離れしたことしか考えていなかった。無知だったのだ。それが敗戦後日を追ってその真実が判明してきた。まず清津(せいしん)方面にはソ連軍の猛烈な艦砲射撃の下に上陸作戦を展開したが、日本軍、朝鮮志願兵の猛反にあい捕虜2000名を残し退却した。そのとき捕虜を講堂に集合させ、逃亡を防ぐためか外部から鍵をかけ放火のすえ退避したらしい。その報復のため取り残された人々は惨い目にあったらしい。これは逃亡してきた元志願兵の話で、ソ連軍と戦闘を交えた場面は丁度鬼ごっこと同じで、発見された兵士は銃弾の的になった。「私でさえ少なくても10人以上射殺し、そのうえ肉弾で戦車一両を撃破した」と。「もし日本が敗北しなければ金賜勲章は間違いなかった」と言って肩を落として帰った。大東亜戦史によれば、第一の目標は清津、無線局が攻撃され局長以下家族共々玉砕した。局長名は田口と記載されているが、田部という局員がいて清津の局長になった記憶が微かに残っている。今となっては完全な証言者が見つからない。
敗戦3日目の平壌では各所に朝鮮元来の国旗である太極旗が市内各所に掲げ始まった。太極旗とは日韓併合前の旧大韓国の国旗であり日本時代には絶対に見ることは不可能のことで、例えそれが発見されれば当然厳罰の対象者になることは必然であった。しかし私は一回だけ親友の全君に密やかに見せられたことがあったのだ。そうして彼曰く「この旗を持っている人は多数いるはずだが、日本人には絶対に見せられない旗なのだ。これが知れると私の命が危険だ。頼むから口外はしないでくれ」と手を握る。承知した。私はその時この旗を初めて拝見したが、そのうち、いつの日か公に掲揚されれば良いのだが・・・と言葉を濁した。その時の私の頭中には、内鮮一体と常に朝鮮総督府が叫んでいた言葉が空虚に空々しく吹き飛んだ。さらに彼が私に見せてくれたのは、戦争前の画報だがアメリカで発行された日本語版で、表紙に大きく漫画で”日本は負け犬に加担した”これは日・独・伊三国同盟を指している漫画であった。その他いろいろあったが、どこで入手したのか一切は質問しなかった。そうして本当の朝鮮内部の事情に耳を傾けた経緯があった。私は全君から絶対的に信用されていたのだ。この件は敗戦後になっても口外しなかった。だから敗戦3日目に見た太極旗は特別目新しいものではなかったが、他の日本人はほとんどの人々が無念とか、あるいは今は駄目だがいつの日かこの仕返しを、と叫ぶ人々もいたようだ。一般日本人は、いわゆる建前ばかりで奥底にあった朝鮮民族の本音に無知だったのだ!だからああなって、こうなったのは仕方がなかったのかもしれない。掲げられた太極旗は健在だった日本軍の手により引き裂かれたが、数日後また元に復元された。水の流れには抗いきれなかったのだ。
かつての精鋭無比の軍人達は悲憤の極限で平壌飛行場に飛行機諸共自爆を決行した何機か存在したり、古武士に則り日本刀で切腹した何人かの将校も噂に聞いた。これら純情無垢の青年も犠牲者の一員になっていたのだ。それら方々の状況を国で待っていた家族そして身寄りの人々は知っているのだろうか。何回も記載しているが、これらの人々、例え軍人であろうとも軍国主義、超国家主義のための犠牲者になったのだ。
敗戦後いくばくもない夕刻、夜陰に紛れ込むようにして顔知りの元警察官2人ばかり、何か風呂敷に包まった品を自宅に置いて曰く「私たちはまだ手足纏にならない妻子もいない。これからソ連軍が入ってくるはずだから、比較的安全だと思う朝鮮南部に逃避する」。それだけ言うと足早に立ち去った。彼らは判断が良かったのだ。そのままズルズルと文句の一つも言いつつ残地していれば当然シベリア行きだったのだ。どこの誰だったか、これらの人の氏名は一切が不明。父は「ちょっと来い」と家族を集め例の風呂敷をもどかしく開いた。出てきた品物は当時使用した朝鮮総督制定の巡査の夏季用の制服二着。色は薄緑色と制帽。まだ着崩れしている様子はない。父、「これは良いものを貰った。今は衣類も極端に不足しているのだから、利用すれば十分役に立つ」。突如母は叫ぶ、「とんでもない!これからどんな世界になることやら、今までの日本時代とは大違するかもしれない。もしそうなったらならば疑われるだけ大損をする。燃やして、燃やして」と。この母の一言で、時局に疎かった父も気がついたのだ。回想するに、母が親に連れられて渡鮮したのは6才の頃、父が渡鮮したのは20才の頃で、母はあの日韓併合直後に渡鮮していたので色々な場面に遭遇していたはずだ。それが何とか朝鮮の治安も安定しつつあった20年後に父が見た朝鮮とは相当の相違があったはずだ。それを半ば本能的に母は感じ取っていたのだ。あの時自宅庭で30分、薄く立ち上る炎と共にかつて威厳を放った制服もあえなく一握りの灰と化した。第一段階の災難を誰にも知られることなく回避したのだ。
諸々の事件、思い出の船橋里(町)、たいした自宅ではなかったが極限に苛まれた事実、数十年経過してもあの時の状況が今もって浮かび上がる。その後の様子再見したいと常々心に留めていたが、最近その平壌のビデオを入手することができた。目を凝らして見れば微かにその断片らしき映像を見ることができた。しかしそこは軍事地帯で一般外国人は立ち入り不可の地帯になっているとのことであった。そういえば、あそこは元来軍用道路が縦横に走り、それにあの熾烈なる朝鮮戦争。当然あそこは米軍の爆撃目標に組み込まれていても不思議はない。だから現存しているのは不可能な地域なのだ。歴史の歯車だろうが、その一言であの情景などは音もなく消滅。そうして未来に進行しているのは当然のことかもしれないが、嗚呼!
当時の各北朝鮮北部都市の状況を簡単に記載してみた。会寧は人口約4万、本当の国境の町で常に武装テロが侵入しているのでもちろん各師団を配置、憲兵は私服でテロ対策に奔走していた事実があり、それがため日本軍兵士の給與は他の朝鮮各師団の兵士より水準が高額だった。羅南は一部記載しているが、ここは最も日本の都市に似ている町だったといわれている。城津は清津と共に朝鮮屈指の漁港で人口約1万、そのうち日本人は2500人であった。吉州は交通の要所に当たり農産物の宝庫であると共にかの豊臣軍が朝鮮遠征の折り加藤清正の配下の加藤清兵衛が数百の兵を持って籠城し、危うく清正に援を請うた史実がある。清津は日本海の不凍港で日本本土あるいは満州方面の交通の要所にして人口約4万、雄基はソ連、中国に接近し良港に恵まれ人口約2万、元山駅付近は日本人の商店が軒を連ねていた。咸興、人口4万、交通の要衛で日本軍の師団も常駐し、農業、水産業、それに工業都市として発展しつつあった。以上各都市は冬季においては寒気というより極寒の土地柄なのであった。それらの各港を経由して大多数の義勇軍を満州各地へ送り込んだ。義勇軍とは当時の青少年を茨城県内原で訓練した今で言う武装農民であったがその末路は悲惨極まるものであった!
元山(げんざん)、ここにも飛行場があり、かつてはここからも沖縄に特攻隊が出撃した基地であったが、何しろ武器不足のため何回目かに上陸を許したのだ。城津(じょうしん)、咸興(かんこう)も似たりよったりの戦況であったが、平壌にはこれらの詳細が連絡不十分もあって届かなかった。
朝鮮の親友の全君、「私の自宅に来てくれ」と真剣な表情で私に知らせる。彼の狭い部屋に訪れると20人くらいの人々が私を指す。全君は通訳をしてくれて「今、平壌駅は避難する人でゴッタがえしている。貴方達日本人は負けて外国の軍隊の恐ろしさを知らない。我々は先祖の時代からその経験をしているので十分に皆分かっている。貴方がたは日本の軍隊がまだ健在だから一刻も早く南に逃げて行ってくれ。南は安全だから!」。全員何かを叫びながら私に頭を下げる。彼、全君とは全く意志が通じていたので、このように知らせてくれたのだ。そうして今までの友情を感謝しているのだと直感的に感じた。ありがとう、と御礼もそこそこに帰宅した。さっそく両親はじめ知人にこの件を知らせる。「何を、その時はその時で、皆一緒に帰ればよい。今ここで騒いでも何もならない」。何回説明してもこのような反応。私はがっかりした。仕方ない!嗚呼!彼らは先祖の時代から何回もこんな目にあってこのようなことを百も承知しているのに。郷に入れば何とやらで、一方的に行け行けドンドンと一方的に向いたからこんな事になったのだ!
戦乱に巻き込まれるので、住民である日本人はもとより朝鮮人、そして中国人までも集団となり避難したが、中には好運な人もいて、8月15日には平壌駅に到着、そして一気に釜山まで到着、無事引き揚げた人々も実在する。これらの人々は本当に運が良かったのだ。
羅津(らしん)は、昭和20年8月8日に白山丸が出港したのが最後の船で、9日にはソ連軍の艦砲射撃により大半の民家が粉砕され逃亡不可の病人、年寄りは自殺した人が相当いたらしい。雄基(ゆうき)も同じこと。そうして会寧目指して避難を開始。会寧はその昔豊臣軍がここまで侵攻、朝鮮王子2名を殺害した史実がある。そうして清正軍は豆満江を渡り中国の一部にまで侵攻”もう敵はおらんかな!”それが地名の一部になったこともあったらしいが、今回の場合は全くその裏返しで、ここに日本の会寧師団が存在していたので、それを頼りに藁をも掴む思いで無数の難民が押し寄せる。その前に憲兵、そして警察が主たる公共物に放火撤退。それがため難民は支離滅裂、会寧在住の日本人約8000名の人々も悲惨は同一であり、当然家族ばらばら。幸いに南に脱出、そこで我が子を発見した事例もあるが、一家全滅、侵攻したソ連軍により婦女子、子供まで整列させられ銃殺。日本軍のため避難路を道案内したため30代の婦人も銃殺された。この消息が明白なので佐藤内閣の時代に軍属扱いとして認められたが、嗚呼、言葉にもならない!
昭和20年初春のころであったが”もう間もなくドイツは敗北する。それが決まれば米国と共同歩調を取りソ連は一挙に国境線を突破して満州、朝鮮になだれ込むだろう。その時の運命は?”こんな感じで雄基で時折り話題になっていた。当時米軍の猛攻により軍はなけなしの飛行機1000機、そして戦車2000両を朝鮮から撤収、本土決戦に備え日本各地に分散配置していたのだ。しかし、そんなことあるはずがない、と思いつつも一応用心おさおさなく過ごしていた日々であった。
この話はあの引き揚げ船中で涙ながらに聞いた実話である。現在の、あの時代を生き抜いた話を聞くと、同情しつつも、これは日本が朝鮮を侵略したのだから仕方がない、と良く耳に入るが、あの時と時代が全く激変しているのだ。平和ボケ、飽食の連続であるが過去の歴史を観察するのに、すべての戦争が起こるべくして起こっているが、突然奇襲された歴史もあるのだ。この状態を他所から引用して少し回りくどいが、アフリカの一部の土人は未開発の土人と言われているが、これを退化した民族だと言えば全然次元が異なる。表が裏になるのだ。
日本敗戦により、肝心の一般朝鮮人は日本人に対してどういう態度を取ったか?朝鮮も最北部のソ連、中国(満州)に接した地方は、混乱が相当あったらしい。混乱とは言ってもこれは少し相違したらしい。何十年に渡って日本統治にあり、反日的言動または経済違反などを行えば、これは当然取り締まりの対象になったが、一般大衆から見れば、それはほんの一握りのような感がした。いわゆる慣れになっていたのだ。それが完全武装のソ連軍が侵攻して来たので、これは大変なことだったのに違いない。それに言語の問題。日本軍と協力して活躍したのは朝鮮の志願兵で、応召で通知を受けた朝鮮の一般人(当時、朝鮮人にも日本人と同じく徴兵の義務があった)、これらの大半の人々は応召に参加しなかったらしい。彼らは機を見るに敏感で、大局を感じていたのかもしれない。以上、色々あるが、とにかく避難には日本人、朝鮮人、朝鮮に在留していた中国人諸共ごっちゃにり集団的に避難した。簡単に言うと何をされるか不安だったのだ。
その点平壌は戦乱にも巻き込まれなかったし、戦場から相当の距離があったので、10月のソ連軍入場までは至極平穏で、行政、ことに配給などは全然以前と変化がなかったし、日本人に対しても一部にはあったらしいが、満州などで発生していた略奪、暴行の類が耳に入ったことは絶無に近かった。仕事がない、蓄えもない関係から日本人会にたむろする。そこは良くしたもの、朝鮮側から各労働者の依頼が相次いだ。労働といっても立派な仕事などあるはずはない、すべて肉体労働であったが、約束どおりの賃金。昼の食事などはしばらく拝めなかった白米の食事が多かった。ソ連軍入場後もしばらくこのような状態は継続した。ただ、軍、警察関係者は例外であったようだが・・・ある酷暑の日、砂利ふるいの仕事だった。ふるうのは私一人、監督は3人、それも日影で約一週間、今にして思うと若いから出来たのだ。労働は大変だったが食事は立派なもの。昼はゆっくり休んで、との配慮があった。最終日には約束の日当60円のところ80円をくれ、励ましのためか肩をたたいてくれた。一般庶民はこんなもので、これが一たん国家権力が介入すると善意が悪に変化するのだ。それから一ヵ月後、たまたまその雇い主の一人に再会した。彼言うのには「私は最近まで日本の福岡に住んでいたが、帰ってきて失敗した。」、どうして?「福岡の人々は皆親切で良い人ばかりだった。希望に燃えて帰ってきたものの、顔の知らない人ばかり。嗚呼」と顔を伏せるようにする。戦前の在日朝鮮人は口をそろえて日本の悪事ばかり言っていたが、こんな人々の発言はすべて抹消されてしまい、我々日本人でも何かを聞きつけると手柄話の一つに戦前の失敗を声を大にしてもっともらしく喚くのが現在風なのか!
日本語放送も8月15日以後ぴたりと中止。ラジオは朝鮮語放送のみ。敗戦になるまでの、朝鮮そのものが日本なのだ、ここ朝鮮が日本である、という神話が徐々に崩壊してきた。当時、平壌在住の日本人は2万6000人、満州からの難民12110名、清津、羅津、雄基など朝鮮北部の咸鏡北道からの難民3150名の資料があるが実際はこんなものではなかったはずだ。それ以外に無数の日本兵でごったがえしていた。難民となった人々は、多分平壌が希望の星に見えたはずだ。全君、こういう状態になっても再三心配顔で来訪、そして「何故早く南に行かないのか。この間の話は三島君一家を救いたくての本当の話だったのだよ。君がいなくなれば私も片手を取られた位の衝撃で悲観するが、これも仕方がないことだ。私も君も何も悪事をしていないのに!」
時折り道路で元々反日思想の持ち主の同級生、金に会う。「おお、しばらくだったな。君に対しては悪感情は全然ないよ。何か困ったことがあれば連絡してくれ。ところで全は日本人である三島君と親しいようだね」。後日になってこのことを深慮すると、ひょっとして全君は、それがため命取りになったのかもしれない。あのとき全君のことになると伺える金の不審のまなこ、今でも思い出す!全君と同一条件の人々は実在したはずだ。私だって条件が整っていれば、全君をゴタスタに紛れて日本に亡命させたかった。無事亡命を達した人々は絶無とは言い切れないだろう。
全君来宅して「今日、私の家で、君の知らない人々を紹介するよ!」。行ってみた。室内には5人ばかり、いずれも話のわかる人達であるが、敗戦になりまた話の内容からして心変わりとばかり本来の朝鮮人に戻ったみたい。私に抗議と質問を兼ねての会話である。「日本は内鮮一体と言いながら大臣を一人も出さなかった」。私も当時軍国少年で年齢も18才、今の年齢では19才。一応は承知していたし、敗戦といえども私は日本人。日本時代には日本人と同一で「俺は大東亜の盟主、いわゆるアジアの主人」と称して満州に行っても威張っていたらしい。それが日本敗戦になるや朝鮮独立万歳か、少し虫が良いなあ。実際のところ昭和13年、初の志願兵を募集したところ、なんとその倍率は60倍で中には大学を投げうって応募した青年もいたのだ。また昭和20年帝国議会は衆議院に7名を認めた過去がある。そうしてこの戦争を勝利するため、あの特攻隊で朝鮮人も含み幾多の犠牲を出したのだぞ!ところが彼ら割合冷静である。「どこの国でも国を愛する気持ちは一つだよ」。やはり彼らの思想とは全然相違すると思っていたが、分かってくれる部分もあったので私自身ほっとした。最後に彼らが言うのには「我々は今から新しい国造りで大変だが、新しい、そして完全独立な朝鮮国を建設する。日本も敗戦国に転落したが新生日本は平和な国家になってもらいたい」。発言も堂々としており、これは私のほうが位負けした感じだった。ひょっとすると北朝鮮の幹部にでもなっているかも知れないが、残念ながら本名を忘却してしまった。なぜか親友の全君は一言の発言もなかった。
彼らが新生国造りに期待と希望を持っているのは肌で感じたが、私はあの時くらい暗澹とした希望も夢もへったくれもなく無念という想いで頭中が真っ白く惨めな思いを受けたことは、それまでの経緯から絶無だった。そうして過去の経過が頭中いっぱいで、壮烈敵陣に突っ込んだ特攻機、あるいは当時もてはやされて日本国民の心の絆だったあの無敵連合艦隊の雄姿が頭をよぎる。国破れて山河ありには間違いないのだが、いかんせん、ここはもはや日本ではなくなったのだ。見慣れた山々、そして相も変らぬ大同江の悠長たる流れ、見るもの聞くものが全部日本ではなくなったのだ。まして私を始め、学友のほとんどが朝鮮生まれ。完全に私たちはここも故郷の一部になっていたはずだ。
例の全君は全くの無言の儘。彼の胸中を察するに、私たち以上に複雑だったことだろう。日本を信じ、彼は彼なりに希望と夢があったはずだ。それがため幼稚園時代から、私と同期になった商業学校まで一貫して日本人ばかりの学校に通っていたのだ。彼はあるときひょいと「俺は将来外交官になりたい希望がある」と漏らしたことがあった。彼は完全に日本人化していたのだが、彼だって混乱、そして無念だったことだろう。あんなことなければ私と彼とは血肉を分けた兄弟みたいな親交を重ねたはずだ。最近馬齢を重ねるごとに彼の悲鳴が耳元で聞こえるような気がしてならない。これは私ばかりではなく、こういう心の犠牲者は今もって多数存在していると思う。現在生きているのか、それとも最悪の状態になっているのか。ましてやあの国のことだから後者の方が的を得ているのだと思うが!
最近テレビで噴火のため離島していた三宅島住民が一部帰還を認められたというニュースを見た。そうして一部制限があるものの徐々に観光客を呼び寄せることが出来る状況になったのは不幸中の幸いである。生まれ育った島の感覚、雰囲気。これはこの島の住民しか知らない計り知れない、名もなき人々の小さな幸せなのだ。昔の学び舎もある。全員ではないが顔見知りにも再会できたであろう。それが故郷の匂いであり感情であるのだ。私の場合、それらが全て外国になり再訪問は困難になっている現状なのだ。三宅島のニュースをテレビで見るが、あの人々は災害にあっても帰島が出来る。その様子を見て、心なしか羨望らしきものが沸き出てくるのもあながち不自然ではないと思う。私は過去の軍国主義時代を懐かしむ心は毛頭ない。しかし
”風の音にも 想い出す アナ懐かしき イニシエに 波乱の風に 憂いあり 置き去り墓標 朽ち果てし 同胞悲し 我が身震るらん”
未だに遺骨収集が出来ないでいるのだ。
「私の叔父は李王殿下のお付け人であったため、時折り殿下のお供で上京した。あるとき釜山と下関間の連絡船に乗船した時、いつもは貴賓室に宿泊されるのに、今回は日本人の財閥に占拠され一等室にお泊りになってしまった。大変失礼を申し上げた」と言ったのが記憶にあるが日本の皇室よりは権威が若干落ちているみたいだった。洪中将の事例は全く気の毒だった。併合当時は韓国陸軍少将だったが、昇進して日本陸軍中将にまでなった人だ。戦時中運悪くマニラの捕虜収容所長になるが、戦後その責任を取らされ軍事裁判で絞死刑に処せられた悪運だったのだ。
併合直後の一面を統計的に表すと、日本時代には経済成長率は平均3.7%の成長、教育面では2.5%から1930年には78%、これは小学校以上の教育で学校数は取るに足らない40校しかなかったのが1940年には1000校以上になった。激増なんて言うものではなかった。しからば日本が韓国を併合した時、各国の反応は?アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなどの国々が支援、賛成を表明している。それが一転敗戦ともなれば四面楚歌となり、今度はアメリカ、イギリス、ソ連の3ヶ国で5年の信託統治案が出ていたが、それぞれ各国の内情は、別の腹案も存在したらしいが定かではない。
以上過去実在した史実もあったが、今は夢のごとく霧散してしまった。食糧の配給は以前どおり。学校授業はない。主たる官庁は機能を失いつつある。何しろ給與はゼロ、無出勤、その上肝心の目的がない。しばらくして朝鮮人で結成した臨時の政府機関らしきものが成立した。交渉のため黒色のソ連機の往来が激しくなってきた。我が家には満州から避難してきた新潟出身の関本さん親子、子供は長女が7才、次女が忘却したが5才、最後は男子で鋼3才、それに遠縁の野村さんが割り当てられ各部屋で売り食いの生活であった。日本人会も結成され、そのうち通達があれば一斉に引き揚げる、そういう理想の引き揚げを信じていた。ある日、小銭があるので、名物の朝鮮そば(冷麺)を小さな食堂で食べていた。丁度そのとき若い朝鮮人が辺りを見回しながらビラ配り。私を日本人と見抜いて一瞥だにせず早急に立ち去った。これはいよいよ独立の初期段階だと感じた。夜になると各所で蛍の光の歌詞に似た唄が唄われていた。