平壌の歴史は朝鮮最古の都市といっても過言ではない。この歴史を日本にあてはめると京都、そして奈良より古い。ただ北部の関係から気候にやや難がある。ある統計によれば冬季の最低気温はマイナス28度にもなることが記録にあるが、通常はマイナス23度くらいである。しかし幸いにも冬季はほとんど無風、それに大陸特有の三寒四温、いわゆる三日酷寒、四日温暖の連続で四温日になるとほっとしたものだ。だから純粋日本式の家屋は不向きであったのがうなずける。そうして日本本土と相違するのは極端に春秋の期間が短く、いきなり春を飛び越えて夏になる。やはりいくら北国といっても夏は夏なのだが、しばし木陰にたたずむと、そこは別世界の感じがありヒンヤリと心地よい温度である。そうしてそれも束の間、9月に突入すると秋もそこそこに突然冬季の再来である。
昭和18年5月、父のいつもの転勤で今度の任地は南端の木浦から一転し、北部、朝鮮第二の都市平壌である。駅から一歩出るとやはり都会らしく、あの独特の音を出しながら路面電車が行き交っている。そうして朝鮮人群衆のざわめき、大半の朝鮮語は分かったような、そして分からないような言葉だったが、端的に耳に入る言葉は今まで聞いた言葉よりアクセントが強い、そして荒い。例えば”ヤ”(あんたとか相手を呼ぶ)、それが平壌の場合”ヤー”と語気が荒々しい。これは朝鮮ばかりでなく、日本本土北部にも該当している点が多々あるが・・・それはそれとして、現在も良く知れわたっているはずだが、朝鮮南部は美男子だ、そうして朝鮮北部は美女が、失礼な言い方かもしれないが産出しているらしい。当時でさえ平壌美人の名があった。それを垣間見えるに、今ではすっかりお馴染みの北朝鮮の通称喜び組をその判断材料にしても間違いない。私は木浦では中学校、平壌では定員の関係から商業学校に編入したが、そこで運命的な、そして悲劇的な朝鮮人の全君との出会いがあったのだ!朝鮮訛が無で我々日本人と全然相違がなかった。(この件は後項で)
先ほど南部朝鮮と北部朝鮮語が少し相違していると触れたが、これは日本と同一に方言が朝鮮語にも存在する。朝鮮語で一番りっぱな言葉は、キョンソンマル(京城語)、現在ではソウルマル(ソウル語)である。著者もいつ覚えた朝鮮語だか不明、多分朝鮮でも南部の田舎言葉であると思う、それに気がついたのは最近で、時折り中国在住朝鮮族の人々と電話で通話するが通信相手は日本語で通じるがその家族は日本語が全然駄目なので、家族が電話口に出た場合は簡単な会話はもちろん朝鮮語の会話であるのだが、時折り電話口に子供がいるらしくクスクスと笑い声が耳に入る。最初は発音の関係かと思っていたが、最近判明したのには前記したごとく田舎言葉だったのだ!言葉は難しい。逆な立場で韓国人が日本語の方言で会話するのと同一だ。以下簡単ではあるが朝鮮語の方言としては京畿方言(ソウルを中心とした方言)、平安方言(北朝鮮平壌を中心とした方言)、咸鏡方言(北朝鮮でも日本海に面した最北部の方言)、慶尚(ソウルから釜山市付近の方言)、全羅方言(木浦付近で朝鮮最南端、黄海に面した方言)が大略でこれを細分化すれば枚挙に暇がないと思う。いつか新聞紙上に掲載されていたが、現在南北に分断されて半世紀以上になっているから韓国と北朝鮮では朝鮮語に微妙な相違が生じているらしい。これもいたしかたないと思うが、国が分裂すれば影響が言語にまで及ぶのだ。私も日本人として早く統一を願うのみである。
4000年、各所に歴史の匂いがする。近くの戦跡では日清戦争、日露戦争当時の記念碑が各所に見受けられる。日軍渡河地点の大同江、原田某という兵士が玄武門破りで一時は英雄視された時期もあったらしいが、帰還後その手柄を種に金儲けに走り、世のひんしゅくを買ったらしい。当時を振り返ると鮮明によみがえる、当時の人口は40万、現在の広域都市とは比較にならない。軍部であるから海軍工廠、航空工廠、歩兵七十七連隊、陸軍飛行第六連隊、通称秋乙師団などなどで何十万かの兵隊、軍属等が町に溢れていた。電車に乗車すれば軍刀姿の将校、電気バス(当時すでに運行していた)には兵士の吐息で充満していた。平和時ならば港を散策しているのだろうが、極端な非常体制になっていたのでその隙さえない。自宅は陸軍飛行場の付近で朝夕その離着陸の騒音が激しく、今でいう公害に十分該当に値する場所だったが、公害なんてとんでもない話だ。平壌大同橋(別名人道橋)を渡ると平壌中心部から平壌駅に通じるが、その手前から南方2キロメートルの地点に船橋里(町)、その駅から約2キロメートル離れているところに平壌陸軍飛行場がある。駅周辺にはどこも変わらず例のヤミ市。昭和も20年になると極端な食糧不足、配給量が絶対的に不足で、朝夕の食事は悲惨たるものでドンブリ一杯で、しかも薄い粥。おかずは何だったか記憶にない。しかしたまには救いの女神がある。隣人の人が良い人で航空工廠に勤務していた関係から、あの白米を頂戴することがあった。これは何物にも替えられなかった。朝鮮人の学友が口走る。「嗚呼、肉が食いたい」。何、肉が食いたい?それより米だろう!「いや、違う。我々は日本人と違い、肉は日本人の味噌汁以上だよ」。今にして思えば、韓国で焼肉も盛んだが、そこが日本人との食についての相違点の一つにもなっているのだ。して米は?と聞くと「これは何とかなる。実は私の両親は時々中国に行って商売をする。その品物見つかれば大変なので隠すのだ」。どんな方法で隠すのか?「あれは誰も気づかない列車のポイントの中に入れるのだ。この中に入れれば列車交換の時にしか開かない」。しかし、あんな隙間のない所と思っていたが、その後敗戦になって他の朝鮮人から聞いたところによると「あれを隠す方法か。日本人は知らなかったはずだ。あれは今では言えるがアヘンだよ」。そうか、そうだったのか。敗戦後、白日の元に曝されても何ら問題がないからだ。こういう経緯があるので、ひょっとすると北朝鮮はそういう伝統があって、今でも生産している可能性は十分想像できる。
自宅付近には映画館があり元来娯楽も何もないとき、映画だけはただ一つの楽しみだった。そのうち、特に”加藤隼戦闘隊”が再三上映されたが軍国少年にとっては全くすばらしい、日本航空部隊が敵機を撃墜するのを息を飲んで見たものだ。実情は全然逆な戦況であったのだ。映画終了して館外に出る。最近そこ付近まで兵隊が充満していたが2~3名の兵隊とちょっとしたきっかけで知り合いになる。私より年齢的に少し上だ。「君、家はどこだ?」、すぐ付近です。一人は鳥取県出身らしい。「我々も遠方から来たのだが、我々が健在である限り絶対日本は大丈夫だよ」。私も軍隊口調に変化し、ハイ ソウデアリマス、「次は君の番だよ」、ハイ マッタクソノトオリデアリマス。映画館の宣伝である加藤隼戦闘隊の看板の下でこのように誓った。
父の勤務場所、平壌飛行場の一角に無線局はあった。徒歩で弁当を再三届けたことがあった。何しろ言うにいわれぬ食糧難、今ではそんなもの簡単にいつでもどこでも手軽に買うことが出来るのだが、いかんせんそんなことすら想像すら出来ない時勢で、何を持参したか、どうせろくでもない名のみの弁当だったに違いない。軍隊内なので通行証持参は絶対条件だった。父の身分は少佐待遇、それにつれ将校にも知り合いが出来、一人二人時折り自宅に来訪する。そのうちの一人、多分姓は中西という方で三重県出身者、陸軍中尉殿。ダンビラを引っさげて当時入手不可の一升瓶持参であった。ただの将校ではなく、かの加藤隼戦闘隊の生き残りで今で言うエリート中のエリート、その戦闘隊の副官だった記憶がある。隣室で父との酒飲み、飲めば飲むほど声高になる。年齢は27~28才くらい、いまだ漲る若さの残影がある。「俺はな、三島さん。戦争なんてどうでもよいのだ!いつ死ぬかもしれない。気に入ったあの娘を隼に乗せて敵前逃亡でもよい。一気に日本本土か満州の奥地にでも行きたい」。それも涙声。あれからどうなったのか、生きているのか死んでいるのか一切が不明である。
当時の青少年に対しての基本教育はいかなる物であったのか?下記に記入してみたが、いかに熾烈に軍国教育がなされていたか。自ずからその実態の概要が浮かび上がってくるはずだ。
このように謳われている。このような教育を頭の柔らかい青少年に事あるごとに教育すれば、いわゆる洗脳され道理が不明になるのも当然の結果である!
自宅から陸軍平壌飛行場まで2キロメートルはあったような気がするのだが、その昇降する軍用機の進路は我が家の上空約300メートル位のものだった。早朝は彼方の目的地に上昇しながら通過する。エンジン全開のため軽爆撃機といえどもその轟音は凄いものだった。陸続として何百機である。現在このような騒音が起これば、やれ公害だ、やれ保証金だとか大問題になるのだが、当時は国の守りと信じていたからそんなことおくびにも生じるはずもなかった。搭乗員が肉眼で明確に確認できる近距離だった。夕刻になるとそれらが着陸体勢になり再度上空を通過する。降下のためかエンジン音はやや低音になる。エンジンから排出される排気ガスの青白い光、今でも眼前に走馬灯のごとく軍国少年の状況が彷彿として浮かぶ。戦局もますます苛烈さが増していったが不思議に重要基地である平壌は昭和19年迄、一回の空襲も経験しなかった。これは日本本土と相違して住民の大半が朝鮮民族なので、米軍はその点を配慮していたのだろう。
ある日、特別な大親友である全氏(朝鮮人)の自宅を訪問する。彼の自宅は狭いオンドルの一間しかなく、家族は妹一人で4才くらい、母親は当時で40代前半のような気がした。田舎臭く顔が似ていない。しかし良い人の感じがした。日本語の理解は半分くらい。いつお邪魔しても笑顔がよく、ない品を振り絞るようにして接待してくれる。あるとき彼は、「他の日本人には見せたことがない、今後も絶対見せないが君は特別だ。しかし口外は絶対無用だ。俺は君を誰よりも信用しての事だから」と言って、戸棚から出してきた分厚い古書。一見しただけで相当な時代物だ。内容は朝鮮語に多彩な絵が挿入されている。「これは朝鮮でも由緒正しい家系にしか存在しないのだ」。由緒正しい?とその時疑問が生じたが、過日、「あの家が私の叔父の家だ」と知らされたことがあった。立派な造りで超一級の家屋に見えた。後日判明したのだが彼は旧朝鮮王の妾の子だった。とにかくその古書を拝見させてもらった。彼説明して曰く「この内容は地球の創生期からその終末まで書いてあり、言わば預言書だよ」と。書物名を知らされたが何十年も経過しているので残念ながら忘却してしまった。ぱらぱらと項をめくり「現在の戦争のことも記入してあるよ」。そこの絵は人物が身体を折り曲げている。彼「ここに記入してある、空から魔鳥が舞い降りて人間の殺傷をはかるが、その時には体を折り曲げて地に伏せるかまたは穴に避難しろ」、丁度今の敵飛行機が来襲した時の避難のことが書いてある。それからどうなる、世界は?「朝鮮は分裂するだろう。そうして150年後に江原道(朝鮮中部の日本海側で、現在では韓国、北朝鮮に分離している)から英雄が出現して朝鮮の統一が果たされるだろう。丁度その時日本列島は大噴火して大部分は海底に沈下するだろう。しかし七つの小島が生き残るが、人口国土も僅少になるはずだ。それが為政治力もなくなり朝鮮の保護国になるだろう」。何!150年後に!それが事実とすれば、あれから約60年経過しているから、あと90年後だ!信じられない!と叫ぶ私。「君、私の言っていることは私感は全然入っていない。本に書いてあることをそのまま教えているのだよ!」、分かった、それで世界はどうなるのか?「アルゼンチン、ブラジル、ロシアは発展するだろう」。中国は?「これは分裂するだろう!」。敵国であるアメリカは、そうして朝鮮は?これは聞いたのだろうが、これまた忘却した。ただ記憶にあるのは「現在の後進国が思いもよらぬ発展をする」と彼は言った。「三島君、国だって寿命があるが人間だって生物だから永久にとはいかないんだよ」。人間が滅ぶと猿の化け物が全盛を誇る。段々地球の土温が高熱になり地上の生物は全部滅亡。従って海中の生物が全盛。蛸の化け物の全盛もある。これはそれぞれ図解してある。今度は海温が徐々に高熱に変化して最終的には海中深くドロドロした海底に貝の全盛がある。「その時には地球の創生期と同一で地上はもちろん海底も真っ暗闇と化するんだよ」。一応説明は終了したが、「三島君、これが本当ならば大変なことだが、我々だっていつかは滅びる。私は朝鮮人、君は日本人だがそんなこと問題にならない。こうして健康で何時何時までも交際しようね!」。こんな友好が1~2年後に破壊するとは神だけが知りえたことあった。
昭和も19年11月、もう少しで厳寒になる。「三島君、博物館へ行ってみよう」。電車を乗り継ぎ初めて平壌博物館に入場した。さまざまな珍品も多々存在したが、一驚したのは、その昔日本の倭冠と朝鮮水軍との戦闘場面である。日本人は小人に描いて朝鮮人はその何倍の大きさに描いて相手を威圧している場面。私は絵の知識は全然ないが昔風ではこの筆法だったのかもしれない。当時大日本帝国による厳然たる統治があった時代であったが、次の現品と説明を見て再度打ちのめされた感がした。その当時の教育と歴史観では、”あの豊臣軍が朝鮮出兵で遠征したが、秀吉死去により兵を朝鮮より撤兵した”との下りであったが、そこにあるのは”朝鮮水軍に攻撃された結果、退路を絶たれた侍達は救援も絶望となり現地である朝鮮に残留した。戦争は終了。危険だから部落には近づけないので、やむなく彼方の山陰など笹小屋を造りそこで何とか生活した”との説明で、時折り日本より肌身はなさず持参した尺八を風の吹くまま鳴らしたらしい。その尺八が眼前に何本も古色悄然と歴史を物語るかのように展示されている。あの時の衝撃、食い入るようにして見学した。一年も経過せず同様のことがまた再現するとは露知らずに・・・この尺八、朝鮮の友人にこれこれしかじかと説明すると、「なんだ、俺の家にも何本かあるよ」。それではと、2本ばかり譲渡してもらった。交換に私の宝物、何を渡したか今では忘却しているが当時朝鮮の骨董品、現在であれば重要品目に何点か推薦されることは間違いないと思う。

戦前の平壌博物館
いよいよ終末の昭和も20年1月、米軍B29が一機だけ偵察の目的で平壌にも飛来した。ラジオは叫ぶ、”敵襲敵襲!”と。学校では空きっ腹を抱え極寒で凍りついた防空壕に飛び込む。高度は1万メートルもあり白煙の飛行機雲を数本吐きながら北部の満州方面に消え去った。あれだけ展開していた日本機は音無しの構えなら良いのだが、無能なのだ。追撃する能力が全然ないのだ。我々日本人は、今に見ろ、と考えたはずだが、あれによって国威の失墜がなおさら倍加したはずだ。それを証拠に朝鮮人たちは日本宅を巡り、当時不要なモーニング、蓄音機など買い漁っていた。買ってどうするの?「いや、もうすぐ平和が来る」との回答。知らぬは日本人だけだったのだ!あれからB29は再三飛来したが爆弾投下など一切実施されなかった。日本側は決り文句で、満州方面で撃破したとの発表。真偽は撃破したのではなく反対に撃破されたとの噂が飛び交った。軍部が常に”今回の戦争は持てる国と持たざる国との戦争だ、彼らは堕落して精神面がゼロだ、我にはヤマト魂がある”と常に国民を鼓舞していたのだが・・・
あれは昭和20年2月、隣人の朝鮮人何人か来宅。「実はお願いに来ました。貴方の家の便所取り付け口が私共の炊事やら洗濯するすぐそばにあります。それがため不潔で、以前の持ち主に何回かこの件懇願したが駄目でした。それで今回持ち主が変わったので、もしやこの件出来れば本当に全員喜びます。」。それを聞いた父「よし分かった、すぐに取り付け口を自宅の庭に変更しますから」。彼ら喜色満面、無理したのだろう、珍品の朝鮮餅を御礼に持参した。酷寒だけれど親子して簡単に取り付け口を移転した。それと同時に珍しく砂糖の配給があった。父は隣組長、朝鮮人も一緒だがその配分方法である。日本人は6、朝鮮人は4の割合、その理由は日本人より朝鮮人は砂糖の消費量が僅少だから。しかし父が言うのには、「今となっては食糧の絶対量が不足しているので日本人も朝鮮人もない。公平に」、というわけで本当に公平に分配した。しかも全員の眼前で。ところが後刻苦情が来た。日本人側からであるが、もはや現物は胃の中、これはこれでチョンとなった。このようなことがらが総合されて、後に大難を逃れることが出来るようになるとは、そのときは夢想だにしなかった。
中国の建国者であるかの毛首席は最重要項目の三点を常に高く掲げていた。その項目とは1.婦女子に乱暴するな 2.人のものを盗むな 3.借りたものは返せ!かつての旧世界の時代では日常茶飯事に横行していたみたい。これは中国に限ったことではなかったが。いったん目をアジア以外に転ずるとアメリカでは泥棒に匹敵するのは臆病者、これは多分西部劇などで心当たりがあると思うが。それがアラブに行くと盗むより盗まれた方が悪いとかの一般論があるが、正式には厳罰が待ち受けており刑量によって手を切断したりする。有名な罰として、体の肉は取ってもよいが血は一滴も取ってはいけない、という有名な名裁判の物語が語り継がれている。朝鮮では2.の項目の泥棒が常に横行していた。どこの家庭でも就寝前必ず錠の点検をした。そうしないと必ずといってよいほど盗難に遭う。これは日本人に対してばかりではない、朝鮮人も同一だった。自宅向かいの朝鮮人が怒って言うのには「昨夜は全く酷い目にあった」、どうして?「我が家は部屋が狭く、しかも一間しかなく、全員がざこ寝のような状態で毎晩就寝するが、こともあろうにそこに泥棒が侵入した。彼も足を踏まないように用心して物色していたが、遂に就寝中の一人の子供の足を踏んでしまった」。必然的に子供は大声を上げる。肝心の泥棒は多分必死の形相でトウマンカッソ(逃亡)してしまったらしい。全く笑うに笑えない事件が横行していたのだ。
今冬は特に寒気が身にしみた。何しろ冬季の常温はマイナス20度の土地柄で、室内の油、インク等はもちろん完全に氷塊と化するような状態である。道路を牛車がノロノロと品物を運搬するが、その涎まで凍りつく。道路共々本当の凍土である。季節はめぐり来た昭和20年3月、朝鮮人の大親友 全君が来宅して言うのには「ここから少し遠路だが田舎に叔父がいるよ。そこに行こうよ。食事の心配はしないで。幸い私には自転車があるので交代で乗っていけば大丈夫だよ」。それではとの事で、休日を利用して出かけた。実際私は田舎にあまり縁がなかったので、行く先々は興味を持って眺めながらどんどん田舎の山野を通過する。一番目を引いたのが散在している昔の遺跡らしきもの。たとえば民家の石垣もそれに該当しているみたい。彼は「これらは昔使用されたものだよ。ここら辺は昔から戦場になり支那(中国)との戦い、日本軍ともここが激戦場になって、支那、ロシアとも交戦したところだよ」。私の目から見れば遺跡の宝庫のような気がしたが、彼にとっては見慣れた場所で何の感動もないらしい。少し疲労を感じたので一休みにとばかりに平坦な墓場付近で小休止。なんぼ若者でもあのブヨブヨ道には少々手を焼いた。朝鮮北部は冬季はあの寒気、春になれば表面は乾燥するが中身はあまり氷塊が融けないので、歩くとブヨブヨになる。丁度、餡餅の上を歩いているかのごとくだ。しばらく経過して付近の小石をポンと足蹴りにする。その途端、下から小刀風の古銭らしきものが出現した。その他色々、私には内容不明で、朝鮮の品か中国の品か判断不可だったが、古銭らしきものリンゴ箱ひとつ分くらい発見した。想像するのに、戦況不利のため退却の折り、掘り出してものにするはずだったが途中戦死したか、また何らかの事情で再来不可になったのかもしれない。だから私に発見される運命になったのだと思考する他はない。思いもよらぬ珍発見だが、目的地にいまだ到着していないので帰路にと思い、一握りだけポケットにしまい込み再度歩行を開始する。あれから一時間も過ぎただろうか。時計などあるはずがないのでもっぱら腹時計。空腹になってきたが多分食事だけはあるだろう。それが胸中でただ一つの希望だ。名もない小川を通り過ぎると彼叫んだ。「あそこだよ!」。眺めると純朝鮮式ではあるが堂々たる門構えの家屋である。朝鮮家屋のほとんどは門を大門を開閉しての出入りである。日本家屋のように簡易に出入りする仕組みになっていない。彼は大声で私には不明な朝鮮語で叫び、門を叩く。多分”おばさん私だよ!”と言っているようだ。すると内部から”イエ”(はい)という女性の返事と同時にカンヌキを開いて開門する。中から出てきたのは中年の女性、彼の叔母らしい。ニコニコしながら手招きする。土産も何もないので躊躇するが、彼が私の手を引く。内部に入れば入るほど立派な造りだ。オンドルにはラデン模様のタンス(貝が埋め込まれたタンス)がでんと配置されている。間もなくサバリ(丼)に光るような銀飯(白米)だ。それに私の大好物のキムチ。白米の飯など最近拝んだことがない。ピョコンと頭を下げむしゃぶりつく。これが本当に極楽の一瞬だったかもしれない。彼女、日本語は上手ではないが、聞く日本語は大体理解できるらしい。日本語と朝鮮語のチャンポンで「パービたくさんパンボグラ(ご飯を沢山食べなさい)」。感激と、あまりの美味しさに時折り胸が詰まる。親友、そして友好とは・・・どうやら夢中で平らげた。そのうち近所のおかみさん、そして50才くらいの主も出てきた。身なりは他の人々より小奇麗で、夫婦共々品があるみたい。これはヤンバンサラミ(金持ちで権力もあり当時としては安心できる親日派)。平らげた丼に焦げた少量のご飯、そこにお湯を入れてくれる。これは朝鮮式で日本のお茶漬けに該当する。叔母、立ち上がり、また持ってきてくれた。今度は朝鮮餅。日本の餅とは相違して、全部もち米ではなく米餅で長細い餅。丸いけれど平らに、砂糖の入らない小豆でまぶした餅。こんな品々はヤミ市で横目に拝むしか手はなかったが、今それが眼前にあるのだ。嗚呼、これを一口家族に食べさせることが出来れば。喜ぶ姿が目に浮かぶ。しかしこれは一時のことで、出来ない相談だ。それに彼らだって、他でもない甥子の日本人であるが特別な友人だからこそ、ない品を絞って待遇してくれるのだ。それにしてもなんぼ少年といっても本当に手ぶらで何も差し上げられないのが残念だと、心中心苦しかった。しばらくしてオモニ達、様子を伺うように「今の戦争は勝つのでしょう?」。彼らだって不安なのだ。もしも日本が敗北すれば、親日派とみなされ相当過酷な運命が待ち受けている予感を感じていたはずだ。いや、日本は絶対に勝っても敗北はない、何といっても神の国で日本は敗北したことがない。大丈夫ですよ!この言葉一つであるいは心穏やかになることを祈るしかない。実際のところ私自身、負けはしないが勝利にはほど遠い、希望の星にもなっていないのが実情だから・・・

見つけた古銭
満腹になったので厚く感謝を述べて帰路についた。あんなに酷かった体も食い物一つで道路を小走るように歩く。例の古銭も何のその、簡単に背負ったり自転車にぶら下げたりして自宅に持ち帰った。これらのこと、両親にかくかくしかじかと報告する。両親が言うのには「お前はその恩を必ず決して忘れず、いつの日か平和な時が到来したら恩を返すんだよ。」と。それから例の古銭、平時ならば新聞の記事の種の一つにもなろうというもんだが、全員が常時空腹では一瞥されなかった。あのお宝は現在どこをさまよっているのやら。それにあの人々はどうなっているのやら。日本人の私は苦難の末帰国したのだが、あの地は北朝鮮なので無事に生存できなかったかもしれない。親日派があだになって。どうもそういう気がしてならない。日本が敗北しなければ無事で平和に一生を過ごせたはずだ。国際関係に巻き込まれると、現在の世界でも一般民が酷い巻き添えを食うのだ。恐ろしい!
昭和20年4月中旬、平壌郊外の秋乙台において日本陸軍の観兵式が実施された、歩撫堂々頼もしき歩兵の大群が行進する。しかし武器は?それが寂しいというより誰の目から見ても貧弱なのだ。戦車は4~5台、しかも小型。大砲、それも同じこと。色付けに今では無力化している僅かな高射砲。それでも行進は続く。そばにいた日本婦人、いぶかるように小声で「お兄さん、これで大丈夫かしら」と囁く。これが最後に見た大日本帝国陸軍部隊の姿だった。
戦火が拡大というより熾烈の様相を呈してきた。これは釜山でも時折り見られていた状況だったが、輸送船に満載の兵士などを日本本土から直接朝鮮の玄関口である釜山に上陸、あらかじめ予定していた各日本人家屋に3~4名くらいずつ宿泊させていた。もちろん各家庭では丁重な接待をしたのは当然のことであった。大半は召集兵で各兵の尽きない話を毎夜方々拝聴していたものだ。ある一家の母が言うのに”兵隊さんお願いします。私の息子も子供ですがそのうちきっとお役に立ちますから”、”今からではねえ”、それは異口同音の回答だった。このように接待される兵士は幸せの部類。そのうち派兵増強で各家庭では限りがある、路面電車のレールを枕にして就寝する状態になっておったが、そのような光景が増員につぐ増員で戦争末期の平壌では市街地に満ち溢れていたと言っても過言ではなくなってきたのだ。あの兵士達は敗戦により、多分大半はシベリア送りとなり、無事帰国できたのは何割ぐらいだっただろうか。私の通った学校校庭にも多数の兵士が、何やら地下道のような堀削を始めたが、それは伺い出来るものではなかった。「班長殿、風呂は宜しいでありますか?」。今となっては懐かしい限りとなってしまったあのドラム缶風呂なのだ。「班長殿、ご塩梅よろしうございますか」、一等兵が叫んだその瞬間、空襲警報の不気味なサイレンが鳴る。敵襲々と兵隊達は右往左往する。生徒全員で彼方の上空を見れば400メートル上空の飛行機は日本の輸送機だ。今の若者は車の全車種を熟知しているが当時の若者は全飛行機の形態など敵味方を問わず知っているのだ。「先生、兵隊さん、あれは日本機」だと全員で騒ぐが、退避々との命令。無理やり防空壕に押し込められた。もっともこの飛行機は生産量が僅少だったと記憶にある。敗戦3ヶ月前の出来事であった。

一時のドラム缶風呂
5月に入ると平壌公会堂に何千人かの群衆を集め、アメリカ、イギリス撃滅の総決起大会が催された。その熱弁を振るうのはほとんど朝鮮人であった。その度ごとに群衆から万雷の拍手、そして声援。熱気ムンムンの会場だった。後100日も経過しないうちに敗戦の憂き身になるのだが、そんな気配は感じられなった。またしても活躍したあの人々には過酷な運命が待っていたはずだ。敗戦の結果、優良なる大日本帝国の臣民が一転して親日派、そして対日協力者と成ってしまったのだ。もうひとつ、あれは昭和20年2月に京城(ソウル)へ少年飛行兵募集会場に行った折、年齢は14~15才くらいの朝鮮人少年で、あの時の会話で多分朝鮮北部出身者だったらしいが、少年戦車兵に応募してきたのが試験の結果不合格と判定されたらしい。「兵隊さん、助けてください。私は国を出るとき部落総出でお祝いしてもらった。それがこの結果では会わす顔もないので帰れない」と泣き叫ぶ大声。終いには兵隊の肩にすがりつき大泣きに泣く。すがられた兵隊も全く困惑しながらも慰めのためか少年の方を軽く叩く。彼らは全く日本人化していたのだった!
戦局も沖縄が玉砕。多分、敵アメリカは本土上陸と同時に朝鮮南部も同じような事態が発生するかもしれないと判断の結果、飛行場の援耐壕建設のため平壌飛行場には最大限の人員が動員された。実際は前の敵より反対方面、北部後方からソビエトに攻撃される結果になった。現在のような機械力を利用すればいとも簡単に完成するのだが、いかんせん当時はスコップ一つで人海作戦。蟻のように群がっても一個を完成するのに一週間はかかった記憶がある。何を食ったか定かではないが軍隊食の一部を転用された微かな記憶がある。もちろん朝鮮人も一緒でお互いに完成を競い合った。
ソ連の対日宣戦布告について、通説にはソ連は不法にも日本との不可侵条約を一方的に破棄して日本に対して宣戦布告をした!ところが各情報誌を検索した結果、大分相違している点がある。確かな一説によれば、ソ連は当初日本に対して宣戦布告の意図がなかったようなに見受けられる。アメリカは対日戦で本土上陸作戦まで敢行すれば100万の犠牲が生じるので、それ以前にソ連にこの戦争の一端を担わせ犠牲を最小限に抑える。その代償として分け前を分割するとの条件で、当時のトールマン米大統領がソ連に対して提案したらしいが、ソ連のスターリンは、もし日本に対して宣戦布告したならば人民は承知するまい、と一蹴されてしまったらしい。米国側はこれに驚愕して3回も特使を派遣した結果、遂に承諾。その分け前の条件として米国側が提案した内容は、満州の大連、旅順と南満州鉄道の権利と中国新彊省をソ連の勢力範囲に入れる。また樺太の南部と千島列島諸島はもちろんソ連に、ということだったらしい。米国側の意図するものとしては、今で言う北方領土の境界線をわざと明確にしなかったとの節があるという。なぜならば将来日ソが共同歩調を取れば、米国が不利になるからとの想像が強い。そうしてこの件が合意した途端、スターリンは前例にない強い口調で侵略者日本と名指しにモスクワで演説し、それから間もなく対日の宣戦の布告を発し、それと同時に日本兵捕虜を収容するため急増の捕虜用の宿舎を建設した。ところが世界は情勢が常に激変しているので、結果的にソ連は当初の満額にもっていけなかった。これが歴史であり今後も同一だろう。